2023年10月03日
「遊び」と「学び」はいつ分かれたのか
いつもの3冊同時読書

『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香 SBクリエイティブ)

『コモンの「自治」論』(齋藤幸平・松本卓也 集英社シリーズ・コモン)

『冒険の書-AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)
なんか、今の僕っぽい感じで面白い。
1章ずつ、3冊をまわり読んでいます。
今日は『冒険の書』からの一節を。
~~~P104より
遊びと学びはもともとシームレスにつながっているのに、近代以降、「遊び」と「学び」はまったく別のものとして区別されてしまいました。そして、それが「学び」を貧しいものにしてしまったという気がしてなりません。逆に言えば、「遊び」が持つ素晴らしい可能性がしぼんでしまったとも言えます。
本来、「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それらがまったく別のものとして分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまったと言えます。
佐伯胖『「わかり方」の研究』(2004)によると
1 社会における「遊び」と「働き」の区別
2 学校における「遊び」と「学び」の区別
3 「自らすすんでする遊び」と「受け身の遊び」の区別
「その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶときは勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つに分かれてしまった。(前掲書)
「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただの『エンターテイメント消費』になってしまった。」(前掲書)
~~~
いやあ、まさに。
「本気で遊ぶ」ってなんだろう?って思った。
むしろ、「本気で遊びたい人、求む」だよ、と。
さらに、P110暴かれた秘密から。
~~~
「近代以前には『子ども』は存在しなかったということだ。つまり、『子ども』という概念は『発明された』のだよ」
「子ども」の発明とは、大人と子どもの間に線を引かれたことを意味する。同じような分割線は『仕事』と『遊び』の間や、『公』と『私』の間にも引かれていった。そしてこの区別こそが人間の生活を貧しくしたのだ。
~~~
うわー、まさかの。ここで『コモンの自治論』にもつながってきます。
これが読書の面白さですね。
「遊び」と「学び」そして「遊び」と「働き(仕事)」
それがいつ分かれたのか?
近代の最大の発明は、「分ける」ということだったのかもしれない。
だからこそ、僕たちは、学びを再定義すると共に、
「遊び」を再定義していかないといけない。
はたして本当に「遊び」と「学び」の区別に意味があるのか?
むしろ「受動的な遊び」によって、
自分達の疎外、アイデンティティの危機は
拍車がかかっているのではないのか。
そんな問いが生まれてきます。
ひとまず佐伯先生の本を読んでみます。
「遊び」の中に「学び」や「働き」があって、それこそがもっともパワフルな原動力だったはずなのに、近代社会はそれを明確に分けてしまった。
言ってみれば、それは「目的に向かう」「目的に向かわない(向かっているかどうかは事後的に分かる)」
の区別だったのかもしれない。
そういう意味では「受動的な消費」というのは、ある意味「目的に向かっている」ことなのかもしれません。
その中にあるささやかな「予測不可能性」を楽しみに、エンターテイメントを消費している。その枠組みこそが、「生きてる感」というか「存在」を失わせているような気もする。
「本気の遊び」を取り戻すこと。それを大人がこのフィールドでまず始めること。そこからしか始まらないなあと。
「本気で遊ぶ」大人を待っています。
※緑泉寮「ハウスマスター」(R6.4~)募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html

『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香 SBクリエイティブ)

『コモンの「自治」論』(齋藤幸平・松本卓也 集英社シリーズ・コモン)

『冒険の書-AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)
なんか、今の僕っぽい感じで面白い。
1章ずつ、3冊をまわり読んでいます。
今日は『冒険の書』からの一節を。
~~~P104より
遊びと学びはもともとシームレスにつながっているのに、近代以降、「遊び」と「学び」はまったく別のものとして区別されてしまいました。そして、それが「学び」を貧しいものにしてしまったという気がしてなりません。逆に言えば、「遊び」が持つ素晴らしい可能性がしぼんでしまったとも言えます。
本来、「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それらがまったく別のものとして分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまったと言えます。
佐伯胖『「わかり方」の研究』(2004)によると
1 社会における「遊び」と「働き」の区別
2 学校における「遊び」と「学び」の区別
3 「自らすすんでする遊び」と「受け身の遊び」の区別
「その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶときは勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つに分かれてしまった。(前掲書)
「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただの『エンターテイメント消費』になってしまった。」(前掲書)
~~~
いやあ、まさに。
「本気で遊ぶ」ってなんだろう?って思った。
むしろ、「本気で遊びたい人、求む」だよ、と。
さらに、P110暴かれた秘密から。
~~~
「近代以前には『子ども』は存在しなかったということだ。つまり、『子ども』という概念は『発明された』のだよ」
「子ども」の発明とは、大人と子どもの間に線を引かれたことを意味する。同じような分割線は『仕事』と『遊び』の間や、『公』と『私』の間にも引かれていった。そしてこの区別こそが人間の生活を貧しくしたのだ。
~~~
うわー、まさかの。ここで『コモンの自治論』にもつながってきます。
これが読書の面白さですね。
「遊び」と「学び」そして「遊び」と「働き(仕事)」
それがいつ分かれたのか?
近代の最大の発明は、「分ける」ということだったのかもしれない。
だからこそ、僕たちは、学びを再定義すると共に、
「遊び」を再定義していかないといけない。
はたして本当に「遊び」と「学び」の区別に意味があるのか?
むしろ「受動的な遊び」によって、
自分達の疎外、アイデンティティの危機は
拍車がかかっているのではないのか。
そんな問いが生まれてきます。
ひとまず佐伯先生の本を読んでみます。
「遊び」の中に「学び」や「働き」があって、それこそがもっともパワフルな原動力だったはずなのに、近代社会はそれを明確に分けてしまった。
言ってみれば、それは「目的に向かう」「目的に向かわない(向かっているかどうかは事後的に分かる)」
の区別だったのかもしれない。
そういう意味では「受動的な消費」というのは、ある意味「目的に向かっている」ことなのかもしれません。
その中にあるささやかな「予測不可能性」を楽しみに、エンターテイメントを消費している。その枠組みこそが、「生きてる感」というか「存在」を失わせているような気もする。
「本気の遊び」を取り戻すこと。それを大人がこのフィールドでまず始めること。そこからしか始まらないなあと。
「本気で遊ぶ」大人を待っています。
※緑泉寮「ハウスマスター」(R6.4~)募集しています。
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