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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年10月12日

「越境」と「脱領土化」と「環世界」

「越境」と「脱領土化」と「環世界」
『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(ドミニク・チェン 新潮社)

「つくる」と「わかる」(23.10.6)
http://hero.niiblo.jp/e493264.html
から「環世界」をキーワードに寄り道。

「環世界」にもアイデンティティ構築のキーワードがあるように思っている。

~~~第1章 混じり合う言葉より
全く知らないことや、よく知らないことについて書く以外に、果たして書きようがあるのだろうか?わたしたちは自らの知識の先端、つまり既知と未知を隔て、片方からもう片方へと移行させる極限点においてしか書くことができない。このような方法によってのみ、わたしたちは書くことを決意できるのだ。(ジル・ドゥルーズ 著者訳)

「脱領土化」

未知の領域に向けて足を踏み出す動き以外に、新しい知識は獲得できないし、自らの立つ領土の輪郭を認識することもできない、ということだ。そして、わたしたちは領土を脱した後に、別の場所を再・領土化する。この運動を繰り返すうちに、無数の世界のあいだを行き来する。

ドゥルーズが「領土」という概念を用いる時、生物学者フォン・ユクスキュルが発明した「環世界」という概念に依拠している。環世界とは、それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のことを意味する用語だ。

自然言語を獲得することによって、人間の環世界はほかの生物と比べて飛躍的な変容を遂げた。

ジャック・ラカンは、「人の無意識は言語のように構造化される、と表現し、「無意識は言語学の条件」であると同時に「言語は無意識の条件」だとも書いている。ここで「無意識」という言葉を「身体が言語に頼らずに世界を知覚する形式」と読み替えてみれば、言語と身体の関係性が、一方による他方の制御によってではなく、双方向のフィードバックを介して結ばれている状態をイメージできるだろう。そして、言語的相対論に拠って立てば、言葉とは、現実世界の現象を無意識から意識へと受け渡すための「受容体」として捉えられる。

受容体とは通常、外界や体内の刺激を刺激を神経系が受け容れ、情報として活用できるかたちに変換する細胞やタンパク質などの分子構造を指す。このイメージを言語に適用してみると、知覚された情報が言葉という受容体によって意識の俎上にあげられることで人間の環世界が立ち現れる様子が見えてくる。

三枝弁証法:「正反合」
ある主張を記述し(正)、次にそれに対する反論を書き(反)、最後にそれら二つのエッセンスを比較しながら、第三の項へと統合する(合)。

ここでも、テクニック(技法)がメッセージ(意味内容)に優先するので、真逆の結論を書いた二つの論文が、同じ教師によって両方高く採点されるということが普通に起こる。

「守破離」:既に定まっている型をひたすら守ることで初学の域を破ることができ、その反復を通してはじめて、自分に固有の境地へと離れることができる。

武道における型とは、具象化された意味内容であり、自らの身体に宿し、あくまでも主観的に経験されるものだ。それはいくら理知的に取り扱おうとしても、身体に流し込まなければ意味をなさない。対照的に、正反合という論理の型は抽象化された構造であり、それはあらゆる具象化された事物に適用できる汎用的な共通言語(プロトコル)である。守破離においては、当事者の身体という主観から出発し、代々受け継がれる型の反復を通して、そのうち新たな型が自然発生することを期待する。正反合では逆に、理知的な意志の力によって、個別の事実から普遍的な価値を抽出し、その次の展開へ導こうとする。

こうしてみると、ヨーロッパ的弁証法と日本的武道の世界認識法はそれぞれ、かなり異質な環世界を生成している。これは文化ごとの形成過程で使用されてきた文字の違いからも考えられるのかもしれない。表音文字であるアルファベットにはそれ自体に意味は立ち現れない。無意味なブロックをいくつも積み上げることを通して、ようやく分節化された意味を持つ一つの単語が現れる。文章を組み立てる際には、単語の連なりをつなげる論理という接着剤が必要不可欠であり、文章の強度を支えるためには糊の粘着度が決定的に重要になる。
~~~

なるほど。「脱領土化」と「環世界」ですね。
これ「越境」とか「アンラーニング」っていうのがどういうことか、っていうのを表しているのではないかと。
「アイデンティティ」って、そうやって形成されていくのではないかと。

「越境」して、新たな領土を獲得して、あらためて元いた領土を見つめてみる。越後の田舎から東京に出ていって、ふるさとを見直してみるように。「環世界」が変わることはつまり、認知が変わることだし、結果、それが「自分が変わる」という感覚につながる。

「学ぶ」っていうのはその繰り返しのこと。

「勉強の哲学」の千葉哲也さんが次のように言う
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~

まさにこれが「脱領土化」っていう話だと思う。
越境、もしくは坂本龍馬風に言えば「脱藩」だろうか。

冒頭のジル・ドゥルーズの言葉
「わたしたちは自らの知識の先端、つまり既知と未知を隔て、片方からもう片方へと移行させること極限点においてしか書くことができない。」

http://hero.niiblo.jp/e491178.html
参考;「存在」は創造のエッジにある(20.11.20)

まさにその極限点(エッジ)にこそ、「存在」を感じられる瞬間があると、僕は思っている。

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Posted by ニシダタクジ at 08:59│Comments(0)日記学び
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