2023年10月21日
「遊ぶ」の土台としての「あそび」
『あそびの生まれる時 「お客様」時代の地域活動コーディネーション』(西川正 ころから)
「あそび」の探究中です。
ホントに素晴らしい1冊がタイムリーに届きました。
電車の中で読みながら亀田駅あたりで泣きそうになってました。
PTA活動などの地域活動がいかに楽しくやれるのかが書かれた1冊。
探究の授業の伴走者や教育コーディネーターと呼ばれる人たちにはぜひ読んでいただきたいです。
「ともにつくる」ってなんだろう?っていうのにもばっちり応えてくれる1冊です。
まずは最初の問題提起から
長い間、人は、手間をともにすることで、他者との関係性を育みながら、生き延びてきた。制度やルールを整えることで「みんなの問題」だったものを「その人の問題」にしてきた。
ホント、それです。制度やルールを整えることで「みんなの問題」が「その人の問題」になる。
これ、寮運営をする上で肝に銘じておきたいことですね。
みんなの問題として受け止めて、考えること。
~~~P10
必要なのは「一緒につくる」こと。
そうすれば、結果がうまくいかなくても、そこには、信頼が生まれている。
その信頼は次の「何かしてみよう」という気持ち、すなわち「遊び」を生み出す。
「何かあったら困るので」は「なにかあっても、大丈夫」に変わる。
私たちはいま、結果のみを重視する社会に生きている。最短で結果を出すことを求められ、自分たちなりの模索=失敗が許容されなくなった。みんなでわいわいと試行錯誤する時間を持つことが難しくなった。しかし、結果に至る苦労と工夫こそが「遊ぶ」ということなのだ。
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次に「好き」の力について
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好きになるというのは自分を含めて誰にも止めることができない。
自分が好きなものを好きと表現すること。そのことをまわりの人が「そうなんですね~」と受けとめていくこと。
「私はこれが好き」の受容は、少しおおげさに言えば、その人の存在が肯定されるということではないだろうか。出会いは、まず「これが好き」の開示と、その受容からはじめたい。
「あなたの好きな〇〇を教えてください」「「あなたの好きを教えてください」シンプルな問いから不思議なあたたかさが生まれてくる。
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いいですね。
4マス自己紹介には「好きな〇〇」って
いれたほうがいいなと思いました。
そして今日の本題の「遊ぶ」と「あそび」の話に
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読者の皆さんは子どものころ、友達と遊ぶ時。最初から「○○しよう」と決めていただろうか。集まってから、「今日はなにする?」と決める(もめる)ことが普通にあったのではないか。
遊びが生まれるために、どこまでを準備し、また、準備しないのかという視点の重要性について考えさせられる。
食べ物も、遊び道具も、労力も、話題も、経験も、知識も参加者が持っているものをみんなにシェアしてもらう。人の集まりにはそんな〈もちより〉の視点を含ませたい。そうすれば、自然とみんなが場の当事者になってしまう。そして、その場は、互いを知り合う自己紹介の場にもなっている。「へーそんなんだ」「おもしろい!」が生まれている。
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もちよること。
僕が学んだNPOの精神。
そして、遊ぶとあそびが定義されます。
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ここでの〈遊ぶ〉とは、「やってみよう」という意味だ。
「やってみよう」の2つの種類(状態)
1 決断した時に口から出る「やってみよう」:経験と情報にもとづいた決定。
2 気がついたらしてしまっていた:おもしろ「そう」なことやってるなあと近づいていって、でき「そう」だから手を出してしまう。
どんなときに人は〈遊ぶ〉のか。「あたま」ではなく、「こころ」そして「からだ」が動くのか?
〈あそび〉の保障
1 〈安心〉してそこにいられること
2 自分なりに変えていくことができる〈工夫の余地〉があること
この〈あそび〉の土台の上に〈遊ぶ(やってみる)〉が生まれる。
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ここで〈安心〉の事例として路上での「道で書くから書道」イベントの事例が出ていた。
「おもしろそう、そしてやってみたらできそうというふたつの「そう」があり、そこになにをやっても大丈夫「そう」あるいは、失敗してもなんとかなり「そう」が重なる時に、人は動く。」
そして、アーティストの藤浩志さんの言葉が引用されている。
「上手にふるまうことへ導く価値観と、感覚的に自由にふるまうことへ導く価値観はまったく相反するものでもある。多くの大人がある時期に「自由にふるまう感覚」を失い、「上手にふるまうこと」がよいことだと思い込み、常識に束縛され、場合によってはある時点で「技術的挫折」を体験する。
「うまいね」は善し悪しを評価する言葉、「いいね」はおもしろがる言葉。その作品を面白がってくれる人が横にいると、遊びとして盛り上がる。視線は作品に向けられる。ともに作る人として対等な関係になる。でも横にいる人が「その泥団子は75点」などと点数を付けはじめると、とたんに遊びではなくなる。視線が人格に向けられる。その場の権力を持つ者の上からの評価の目線が入ると、人は気持ちを閉じていく。
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幼児~小中学生の芸術的行為(あそび)に対する大人の態度が、子どもの創造性をぐんぐん奪っていることが分かる。なんかもう、泣きそうだ。
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小学校1年生は、みな絵を描くことが大好きだ。ところが、中学3年生になると多くの生徒が絵が嫌いになって卒業していく。これは「お前は他の子よりうまい/下手だ」という評価を9年間繰り返し、「上手になる」ことを大人が求めてしまった結果ではないか。褒められるからやる、勝てるからやる、という動機づけは、やがて「自分よりもできる人」が登場すると大きく揺らぐことになる。
何かを表現してみたら、誰かの「応え」があると嬉しい。しかし、上から目線の評価が返ってくることを知ると、やがて、できる子は忖度をし、できない子は表現自体をやめる。好き/嫌いと、できる/できないは別の軸だが、できる子は好きと思い込み、できない子は嫌いと感じるようになっていく。
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「義務教育」ってなんのためにやってるんだ?って憤りたくなる一文。
9年間で「表現しない」という自己防衛機能を身につけるとしたら、それはいったい何の役に立つのか教えてほしい。
もうひとつのキーワードが「工夫の余地」だ
西川さんが企画を立てるときに悩むこと。
どこまでを運営者が準備し、何を当日スタッフに「委ねるのか、どこを来場者と一緒につくるのか。
「そこに、〈安心〉と〈工夫の余地〉はあるか?」と
P61の図を見ながら考えていくこと。
工夫する力が強い人が工夫する余地が大きい(自由度が高い)ことをやることで「(大変だけど)たのしい」につながっていく。そこに工夫する余地が小さいことをやってもらうと「つまらない(不満)」となり、反対に工夫する力が弱い人には、いきなり工夫する余地が大きい(自由度が高いこと)をやってもらうと、わからないという不安・困惑につながるから、その人に会わせた工夫の余地を見極める必要がある。
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これは「総合的な探究の時間」設計のところでの「フレームワーク」問題に直結しているなあと。
授業の枠内で行うのを前提として、個人差があることも考慮して、そもそもフレームワークにするのか、というのと、次にどこまでの自由度でやるのか、という問いかけは常に先生と相談しながらやっている。
なるべくなら自由度の高いものをやってもらいたいのだが。
授業内ではここまで、だからこそ授業外にその先のものを設計したいなと思うのだけど。
「探究なんて遊びじゃないか」と言われながらも、その「遊び」こそを探究したいなと思っています。
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