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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年10月05日

「能力」という信仰


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

これ、いい本ですねえ。
中学生の授業で1コマ1年間通してみたい内容です。

「遊び」と「学び」や「仕事」はなぜ区別されるようになったのか?が前回。
その前には「子ども」と「大人」が切り離されてしまったことがある。
その根本的な原因には社会の産業化が起こったからであるという。

~~~
産業社会は人々がなにかの専門家になることを求め、なんでもどんどん細分化していきます。そうした性質がこのような線引きをしていくのです。あらゆるものが分業化されるようになると、人々は労働者として専門的な知識や技能を伸ばすこと求められるようになります。

人生のすべてに生産性や効率を求める考えにとらわれた私たちは、お金をかせぎ続けるためにおもしろくもない仕事をして人生の大半を過ごし、将来に不安を感じながら生きています。その厳しい実力主義は当然、学校にも伝わり、ますます「学び」から「遊び」が取り除かれるようになっていったのです。
~~~

おそらくは産業社会への適応とか子どもたちを児童労働から守るとか、そういった大義の中で教育というシステムができていったのだろうけど、近代社会的な産業構造が変わって、「教育」という枠組みそのものをアンラーニングしなきゃいけないのだなと。

さて、第3章に進んで、今日は「能力」の話を。
やっぱりキーワードは「分業」です。

~~~
産業社会の最大の特徴は「分業」です。効率を高めるために仕事をこま切れにし、専門をとことん追求します。実際、工業生産は分業と機械化によってめざましく成長しました。そこで、工場で働く人間も、専門的な知識や技能を伸ばすことが求められるようになりました。そして、人々は「優秀な能力を持つ人は高い給料をもらうことができ、そうでない人は給料が安くて当然だ」と考えるようになったのです。

こうして「能力」は万能な「通貨」のようにみなされるようになり、人々は「能力さえあればなんでもできる」と考えるようになりました。

「なんのために勉強するの?とか言われてもよくわからないし、考えるのもめんどくさいから、とにかく目先の勉強に集中しよう」というのは、思考停止以外のなにものでもありません。

思考停止はかならず「手段の目的化」を生み出します。大学に行く理由は本来、自分が探究したい学問を研究するためであり、大学に入ることは単なる「手段」にすぎないにもかかわらず、今では「いい大学に入ること」そのものが勉強の目的になっています。これを「自己目的化」といいます。

「能力」というのはあくまで「結果論」であり、同じようなことをしている他の人との比較でしかないのです。結果が良ければ「あの人は能力がある」、悪ければ「能力がない」他人と比較して優れていれば「能力の高い優秀な人」劣っていれば「能力の低いイマイチな人」と言っているだけなのです。

人は必ず
行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
という順番で評価を組み立てていて、「能力」の有り無しは、結果論と比較論によって生まれた「フィクション(つくりごと)」でしかないにもかかわらず、多くの人々はそのフィクションを実態として存在するものだと信じてしまっているのです。

行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
ということは
良い結果が出そうなら行動してみよう←良い結果が出る可能性が高まるだろう←能力を高めれば(信仰)

これは「循環論法」であり、理屈として成立していない。

にもかかわらず、多くの人はそれが理屈としてちゃんと成り立つと考え、「勉強して学力を高めれば、きっといつか報われる」「能力を高めることが幸せになるための唯一の道だ」とかたく信じている。これが、能力信仰の正体なのです。

現代人はまさに「能力教の信者」です。「能力教」は、ひょっとしたらいまや世界最大級の信仰かもしれません。

人間は機械が発達してきたこの200年、工場の生産システムや管理システムの一部に組み込まれて働くうちに自分たちを機械のようなものだと考えるようになった。つまり、これまでは「人間の機械化」が進んだ200年だったんだ。

「機械化した人間」も「成果」で評価されるようになった。だから人間は性能が良くて、壊れなくて、使い勝手が良い存在として、「能力」をアップデートし続けなければならなくなったのか。「リスキニング」なんてまさにそうだ。
~~~

「能力」という信仰。
まさに「信仰」としか言いようがない。

結果論であり、比較でしか位置づけられない「能力」を、実体のあるものとして認識するっていうのは、どう考えてもおかしいのだけどね。

そのスタート地点が「分業」にあるっていうのも、今回あらためて分かったところです。

佐々木俊尚さんは
「レイヤー化する世界」の中で国民国家の神髄は、
「ウチとソトを分ける」ところにあると説きました。
http://hero.niiblo.jp/e483303.html
(参考:自分を「多層化」して生きる 16.12.20)

「分業」と「効率化」
そこから「能力」という信仰も始まっている。

そうだとしたら。「能力」の呪縛から解き放たれるためには、
「分業」と「効率化」というところから、始めなければならないのだと思う。

だから伊藤洋志さんの言う「ナリワイ」の概念や
http://hero.niiblo.jp/e441317.html
(参考:50年間だけの成功モデル 14.6.29)

内山節さんの「共同体」の概念が必要となってくる。
http://hero.niiblo.jp/e490602.html
(参考:豊臣秀吉はなぜ検地、刀狩りを行ったのか? 20.4.26)

そのひとつの方法論として、高校の寮を運営し、
「循環する時間の中にある偶然性を見つけ、ともにつくる、という創造性につなげていく」
っていうことがあるのだと僕は思っています。

阿賀黎明高校の越境入学する生徒たちの寮「緑泉寮」は令和6年度からのスタッフを募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html  

Posted by ニシダタクジ at 09:38Comments(0)学び日記