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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月31日

「自分」という共有財産

「自分」という共有財産
「ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す」(山口周 プレジデント社)

これは、すごかったですね。
2017年秋に大阪・スタンダードブックストアで山積みされてた「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」を読んだときの衝撃を思い出しました。

あの時。ああ、今やっていることは美しくないなと思い、帰りの新幹線の中で退職を決意しました。

いま読み進めていた2冊の本

「自分」という共有財産
「100分de名著 カールマルクス資本論」(解説 斎藤幸平)

「自分」という共有財産
「ブルシットジョブ~クソどうでもいい仕事の理論」(デヴィッド・グレーバー 岩波書店)

これらを「そもそも」っていうのから考えるのに最適な一冊。
哲学的でもあります。
山口さんの切れ味(書き味)、めちゃめちゃ好きです。
「ぐうの音も出ない」とはこのことか、と。

ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?

という書き出しから始まるこの本。
その使命とは「経済成長とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」です。
もはやその使命はほぼ果たされ、「祝祭の高原」にいるのだと説明します。

徹底してデータから低成長は危機ではなく通常モードであることを説明します。
「成長」とは本当に価値なのだろうか?と問いかけます。
そして、イノベーションを牽引し、再び経済成長をしているからのようなアメリカにおいても、
それは「富の移転」でしかないのだと。
それは200年前に自動車が発明された時とは、まったく社会的状況が異なるのだと。

僕が注目したのは、
P109に載っている「問題の普遍性」と「問題の難易度」のマトリックスです。

問題の普遍性が高く、問題の難易度が低い領域には、
多くの人が悩んでいる問題で、かつ、投資する資源は少なくて済むので、
多くの企業はそこに参入します。
松下電器が電化製品をつくり、トヨタが自動車を生産したわけです。

「課題を解決すること」がビジネスの本質であるとすると、
困ったことに、問題(課題)はだんだんと解消されていきます。
多くの家庭に洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自家用車・・・が行き渡ってしまいました。
それを解決したのが「地理的拡大」でした。
アメリカに売り、ヨーロッパに売り、そしてアジア諸国に売ったわけです。

この「地理的拡大」に際して重要なのが「スケールメリット」です。
普遍的な課題(誰もが感じている課題)に対してアプローチするのなら、
多くの商品をより効率的に作ったほうが競争力を生みます。

ところが。

「普遍性が高く、難易度の低い問題」の領域こそが高いビジネス性を持っていたのですが、
その領域は解決されつくしてしまいました。しかも、これ以上の「地理的拡大」も望めません。

したがって、企業が採用する選択肢は2つ。
「普遍性が高いが、難易度の高い問題」へのアプローチ
「普遍性は低いが、難易度の低い問題」へのアプローチ
となります。

いわゆる「ニッチ市場を狙え」みたいなやつは後者で、中小企業が採用しやすい領域です。
大企業は余力(資本)がありますから、前者のアプローチも可能です。

しかし、いずれにしても、「経済合理性」という観点から考えれば、メリットが薄くなります。
これをP116で経済合理性限界曲線という形で表しています。

ラインの上側に抜けようとすると、問題解決の難易度が高すぎて投資を回収できない
左側に抜けようとすると問題解決によって得られるリターンが小さすぎて投資が回収できない
という限界に突き当たります。
つまり、市場は「経済合理性限界曲線」の内側の問題しか解決できないのです。

じゃあ、どうするのか?
山口さんは熱く、語りかけます。
引用するのは、サン=テクジュペリ「人間の大地」

人間であるということは、まさに責任を持つことだ。
おのれにかかわりないと思われていたある悲惨さをまえにして、恥を知るということだ。
仲間がもたらした勝利を誇らしく思うことだ。
おのれの石を据えながら、世界の建設に奉仕していると感じることだ。

モチベーションの源泉は「人間性に根ざした衝動」だと山口さんは言います。「衝動」とはつまり「そうせざるにはいられない」という強い気持ちのことです。損得計算を勘定に入れれば「やってられないよ」という問題を解決するためには、経済合理性を超えた「衝動」が必要になります。

たしかに、いわゆる「ソーシャル・イノベーション」を起こしている人たちの出発点は、
「衝動」に当事者意識を持ってしまったところから始まっているなあ、と。

普遍的問題については、あらかた解決してしまった高原社会にいる私たちに残された活動は次の2つです。

1 社会的課題の解決(ソーシャルイノベーションの実現)
経済合理性限界曲線の外側にある未解決の問題を解く
2 文化的価値の創出(カルチュラルクリエーションの実践)
高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す。

そして
P236の「バリューチェーンからバリューサイクル」へと。

これは「東北食べる通信」なんかで起こっていることだよなと。
「責任ある消費」という概念。

~~~ここから一部引用

「自分が稼いだお金は自分が自由に使っていい」という自明のように見える言葉に、その「自由」はどのように認められるのか?と問いかけます。

ジョン・ロックは説明しました。自分の身体は自分の所有物である。そして労働はその身体を通じて行われる、したがってその労働の結果生み出された価値はその人のモノであり、そのい価値と交換することで得られたお金もその人のモノである。したがってそのお金は自由に使って構わない。

このロジックの違和感は起点となる「自分の身体は自分の所有物だ」という一文にあります

自分の身体は、生物学的には両親から贈与されたものですし、遺伝子レベルで過去に遡及していけば単細胞生物から永遠と続く無限の縁から贈与されているわけで、要するに「宇宙から与えられた」としか言いようがないものです。

私たちの存在は「死者」と「自然」から贈与されています。贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ「死者」あるいは「自然」として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。つまり、私のいう「責任消費」というのは、贈与された私たちの存在を未来の子孫に対して贈与し返しましょう、ということになります。

~~~ここまで一部引用

いいですね。「世界は贈与で生きている」(近内悠太 ニューズピックス)を思い出しました。
http://hero.niiblo.jp/e490625.html
(20.5.3 手紙を受け取るために学ぶ)
僕たちが学ぶ目的は、「被贈与者であるという自覚」のためだとこの本を読んで思いました。

「責任ある消費」
それは「贈与」や「応援」の意味合いを持つ消費だと山口さんは言います。
経済成長を前提とした「大きく、遠く、効率的」という社会から
「小さく、近く、美しく」というベクトルへとシフトしていこうと。

先日、とある「誇り高き百姓」の家で、ご飯をご馳走になったのだけど、
自分の畑や山で録れた野菜・山菜料理に、手打ちそば、そしてどぶろくと
豊かさと誇りを感じる時間だった。ただただ、その時が美しいと感じた。

「誇り」とは、営みの中にあること、そして責任なのではないか、と思った。
被贈与者であることを知り、それを次に贈らなければならないと感じていること。

僕はこの「営みの中に入る」という方法が、
僕の15年の課題である、若者のアイデンティティ問題に直結しているように直感した。

旅行に行ったときに、観光客向けの整備されたキレイなレストランではなく、地域の人に長年愛される大衆食堂(たいていが中華やカツ丼)に行きたくなるのは、「営み」に入りたいからではないか。

「にいがたイナカレッジ」の1か月インターンが提供しているのも、集落を維持していく営み、つまり自分の人生を超える長さの「営み」の中に、自分を委ねてみること、なのではないか。

コモンズ(共有財産)の再生、再構築。
シェアハウスなどの「シェアの文化」もその萌芽だと思うのだけど。

それは、他でもない自分自身が「コモンズ(共有財産)」であることを知ることなのかもしれない。
ジョンロックの定義とはまったく逆で、「自分自身が自分のモノではない」という自覚から、
実はアイデンティティが立ち上がってくるのはないか、という仮説。

それが観光×教育のキーコンセプトになりそうな気がしています。

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Posted by ニシダタクジ at 09:00│Comments(0)日記思い
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