2020年05月03日
「手紙」を受け取るために学ぶ

「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニュースピックスパブリッシング)
衝撃でした。
「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)以来の衝撃。
「贈与」は受けとることなく開始することができない。
贈与された、という気づきからしか始まらない。
モチベーションの源泉。
それは「贈与」そのものなのだろう。
言い換えれば、その人が「贈与を受けた」という勘違いすること。
大学生のアイデンティティ・クライシス問題に切り込む1冊。
アイデンティティは、どのような未来を目指すか?ではなく、過去にどのような贈与を受け取っているか?という問いから始まる。
「自己分析」でやるべきはきっとそっちだ。
何をやりたいか?ではなく、
これまでどんな贈与をもらったのだろうか?
誰にそれをパスしたいのか?
僕はそれを「お客は誰か?」という問いで表現してきたけど、お客の設定としてもっともパワフルなのは「過去の自分」で、そのためなら無限にエネルギーを得られるのだけど、それって過去の自分にとって「つらかったこと」も本質的には「贈与を受けている」からなのかもしれない。
交換の論理と贈与の論理。
消費者マインドと贈与者マインド。
道徳って本来きっとそういうことだ。
「地域愛をもった高校生を育む」のではなく、
「ペイフォワードしたくなるくらい贈与を受け取った」と認識できているかどうか?
イナカレッジの大学はまず最初に、いや1か月のあいだずっと、贈与を受け取りつづける。
結果、何度も帰ってくる。
~~~本文から
そもそも、僕らがつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなったときなのではないでしょうか。(中略)交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。
贈与は届かないかもしれない。
贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ。
そう思えることが差出人に必要な資質なのです。
~~~
交換の論理しかない社会が果たして「社会」と呼べるのか?
天職(calling)への道は、誰かの声を聴くこと。耳を澄ませること。
人はみな「言語ゲーム」という「世界」を生きている。
他者を理解するとは、その「言語ゲーム」を理解する、ということか。
そしてその言語ゲームを開いていく、というのが「コミュニケーション」なのか。
人は「正統的周辺参加」によって、ルールや言語を習得しているのか。
ルールが先にあるのではなく、ゲームが先にあるのだ。「実存は本質に先立つ」っていうのもね。
とすれば、「地域の活動への参加・参画」っていうのは、文科省が言っているから、ではなく根源的に必要なのかもしれない。
「疑い」ではなく、「自身の言語ゲームに対する問い」か。
「この言語ゲームで本当に良いのか?」という問いね。
「常識を疑え」って言われるよりもよっぽど刺さりますね。
この本の言う「言語ゲーム」っていう概念を実感することで何かが変わるなあと。
僕は、この本を読んでいて、なんのために学ぶのか?についてのひとつの仮説を得た。
なぜ、学ぶのか?
なぜ、知性が必要なのか?
それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。
たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。
「贈与を受けてしまった」という自覚からしか
贈与が始まらない。
生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。
これはもう一度読み直さないといけないな。
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