2023年02月18日
輸送から徒歩旅行へ、そして「自由」を手に入れるために学ぶ

「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)
読み終わりました。
すごいグサグサと刺さりまくる本ですね。
高校魅力化界隈の人は読んでほしい。
その「探究」は何のため?と問いかけられる1冊。
~~~以下メモ
自主性というのは、環境とウマが合ったときに子どもに欲望の火がついた状態のことを言うのでしょう。つまり、教育の「され方」がうまくいっているときに、自主性は生まれやすいのです。
学びは一方がもう一方をむやみに信じ込むという非対称な関係のもとでなければ成立しえないのです。
それなら、あなたにとってどういう人が「先生」になり得るのでしょうか。それは、謎を秘めている人です。つまり、得体の知れなさのようなものを感じさせる人です。
実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。
いつの間にか先生が教えようとしていないことまで勝手に学んでしまう。そういう勘違いが学びの本質。
先生との出会いというのは、いったん自分の身体がバラバラになったような経験です。それから、バラバラになった身体を再統合して、もう一度生き直すような経験です。
「差別はいけない」という形でマイノリティが社会的に包摂されるようになった状況は、これまでのマジョリティの支配と何も変わっていない。むしろ、それも差別の一形態じゃないか。
自分を善良の立場に置くことがいつも差別の構造の根本にあるのに、いったんその立場に立ってしまうと、それを保持することに躍起になり、肝心なことに気がつかなくなってしまうものです。
コントロールというのは、わかりやすく相手を自分の思想に染めるのではなくて、こんなふうに相手をある枠内でしか思考できないよう追い込むことによって遂行されます。でも、それは表面上では子どもの意志を尊重する体をとるから、子どもはもちろん親自身さえその権力構造になかなか気づきません。
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いいですねえ。
なんかバッサリっていう感じで。
「実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。」
そうなんですよ。実社会が偉いなんて、子どもも大人ももう信じられなくなっているんじゃないかと思います。
そして、ラストの章は、「なんのために勉強するのか」についての鳥羽さんなりのコメントがアツいです。
~~~以下メモ
「人の役に立つため」に勉強するようでは志が低いんです。なぜなら、「人の役に立つため」というゴール設定は、知らず知らずのうちに未来の可能性を封じてしまうからです。
科学技術の歴史を振り返ってみればわかりますが、人間が生きる地層を変化させるような発明のほとんどは「人の役に立つため」という動機で生まれていません。そうではなく、世界の秘密を探求する営みの中でたまたま発見されたことが、応用的に人の役に立つことに利用されるようになったのです。
つまり、人の想像力なんてたかが知れていて、現実世界では人の想像をはるかに超える偶発的な出来事が起こる。そこに秘められた爆発的な力をうまく利用することで、人は世界を改変してきたのです。
「人の役に立つため」という限定された目標設定では、偶然との出会いは生まれず、スタートの時点で未来の可能性をつぶしてしまいます。
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人の役に立つっていうのは目的ではなく結果だと鳥羽さんは言います。
さらに、勉強と「自由」ついて、鳥羽さんのアツい話が続きます。
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あなたが勉強を通して自分自身が変化することを発見し、それにともなって世界の受容のしかたが変わること、さらにそのことで、あなたを取り巻く人やモノとの関係性さえも変わることを許容できるかということにかかっています。
勉強することの大きな意味のひとつは、それを通してあなたが親をはじめとする身近な大人の影響から距離を取ることができる点です。
人間たちは、勉強を通して抽象の扉を開き、具体と中小の間を往還することで、世の中を見る解像度を高める努力をしてきました。
勉強は子どもの目を別のしかたで取り戻すことを通して自由になるためのものとも言えるのです。
人間は自分の人生が動き続けるということに負担を感じます。だから多くの人は大人になるにつれて、安定と安心を求める方向に進むものです。それに対し、自由というのは常に自分自身が揺れ動くことを許容することであり、安定や安心とは真逆の価値観なのです。
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「勉強」と「自由」について、考えさせられた。
勉強とは本来、「思考の自由」を得るためにするものなのだ。親の影響や世間の常識に囚われずに自分で思考・判断できるようになることでできるのは勉強を通してのみ可能だ。「この先に自由がある」と自覚したものが学び、本を読むんだ。
ところが学校での勉強の多くは、むしろ社会適応した使いやすい存在とした「匿名の誰か」を作ろうとしているという自由とは真逆の方向に進んでいるから、それを本能的に察知して学ばないのではないか。
「じゃあ、どうやって学ぶか?」
そんなときに飛び込んできたのが、大阪万博の広報活動「AFTER2025」だった。
http://after2025.jp/magazine/
人類学者ティム・インゴルドのインタビュー記事。
~~~以下メモ
「輸送(transport)」から「徒歩旅行(wayfaring)」への変化。「目標を掲げて、AからBへ移動すること」から「常にまわりの状況に反応し続けられる状態にあること」への転換こそがほんとうのシフトだと考えています。
私たちの行動は、すべて人生の一部であると捉えてみましょう。そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです。
少し想像してみてください。もし、みんながまったく同じ考えを持っていたら、会話は成り立たないと思いませんか?それぞれが違うことを考えていたり、異なる経験や知恵を持ち込むからこそ、私たちは言葉を交わすことができる。人は誰しも異なる経験を持っています。だからこそ、なんらかの形で会話に関わっていくことができる。公共とは、「ある問いに対して集められた異なる経験や知恵の集合」なのです。
教育とは本来、私たちの人生の歩みを導くこと。固定観念や思い込みから解放し、世界に対する知覚をひらくー私たちは世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学ばなければならないのです。
~~~以上メモ
人類学的アプローチ。参与観察。
たぶん、これが方法なのだろうなと。
輸送から徒歩旅行へのシフト。
そして「自由」のために学ぶ。
これが、僕の「探究(的学び)」に惹かれる理由だと思った。
僕が「高校生の探究」というテーマに惹かれる理由は、それが高校魅力化の方法として適しているとか、文科省がいうようにこれからの社会を生き抜くのに必要だから、ということではなくて、マイ探究である若者の(大人も)アイデンティティ問題にアプローチする方法として「探究」が魅力的だったから、だ。
そしてその方法を一言で言えば、ティムインゴルドが言っているように、「ともにつくる」だ。
人は「自由」を手に入れるために学ぶ。親の影響や世間の常識によって自由を脅かされないように。勝手に設定された「枠組み」の範囲内から脱出するために。
だから学ぶし、その学び方は目標設定・達成を繰り返す「輸送」ではなく、世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学んでいくということ。
そういう実践をしていきたいなあと。
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