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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年09月16日

「自己」ではなく「自分」

「自己」ではなく「自分」
「会社という迷宮」(石井 光太郎 ダイヤモンド社)

いつも話していてインスパイアされる友人絶賛の1冊。
でてくるキーワードにいちいちシビれますが、今日はこちらを。

~~~
「組織」との関係の中で自分の場所というのは、古来、日本では「分」という言葉で表現されてきた。

「分」とは何かと言えば、そもそもは、集団の中で自分の役割や責任を自覚的に認識するポジティブな概念であったはずである。何より社会においては、人間は常に「自己」ではなくて「自分」なのである。

「分」とは、社会や集団や組織の中で、自分はどのような位置を占めるか、何者なのであるか、を自覚・他覚し、共有するための表象なのである。そして、職業や仕事の世界においては、自らの職業人としての責任や矜持を表象するものが「職分」であった。
~~~

!!!

そうか。
「自分」を知るって、自らの「分」を知るってことなんだな。
「分」を言い換えれば「役割と責任」

就活の時の「自己分析」の違和感ってそこにあるんじゃないのか。

大切なのは「自己」ではなく「自分」

かつて茨城大学の学生が言っていた。「どんな仕事でもいい。この人と一緒に働きたいと思える人と働けるなら、1日中コピーを取っていても、エクセルに数値を入力してても、なんでもいいんです。」

たぶん。
そういうプロセスの中で「自分の場所」を見つけていくのだろう、って思った。

高校生や大学生にとって、「自分を知る」というのは、「自己を知る」ということではなく、文字通り「分」を、役割や責任を知りたいということなのではないか。

それは自己分析では出てこなくて、いろんなアクションの先での対話と探究の結果、自覚・他覚されてくるもの、なのだろうなと。

そういう意味においては「自分」っていい訳語だなあと。

ひとりひとりは「自己」ではなくて「自分」なんだよなと。

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Posted by ニシダタクジ at 07:54│Comments(0)学び
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