2023年06月17日
「おのずから」という問いの共有
「教育は誰のためにあるか」
その問いが、僕たちを結びつけているのかもしれない。
「ローカリズム原論」(内山節 農文教 2012刊)
もんもんとした違和感が残るオンラインイベントのあとの電車読書はこの1冊。
とあるブックカフェで目に留まって購入しました。
第3章 日本人にとって個とは何か
まさにアイデンティティの問題ですね。
面白かったのでたくさん引用します。
~~~
個の確立とは何か。欧米社会における個の確立は、横の関係でつくられていると考えればよい、つまり他人に対して自分を主張するかたちで個をつくり上げていく。他者との違いを際立たせるという関係のなかで個を確立していくのが欧米的な個の確立です。それに対して日本人は伝統的に、自分を深めるとか自分を究めるということに個の確立を求めてきました。
日本人が自分をつくろうとすると、他人との違いはどうでもよい、それよりも自分の追求したいことをとことん究めたくなる。ひたすら下へ下へと穿っていく。そういう感じで個を確立しようとします。
~~~
なるほど。他者との違いによって個(アイデンティティ)を確立するのは欧米的なのですね。
「差別化によるセルフブランディングを」とか言っている人には「欧米かっ」って突っ込んだ方がいいですね。
そして今朝イチの衝撃。人間はなぜ文化・文明をつくってきたのか。
よくあるのは、2足歩行の実現により脳が発達して、道具を使えるようになって・・・
と説明されてきたわけで。
その視点で見ると、共同体や関係性づくりも「生きのびるための道具」と位置づけられてしまうが、内山さんはそれを否定します。
~~~
人間は非常に弱い動物として地球上に生まれてきた、と考えています。
人間というきわめて弱い生き物が生き延びようとした方法として、人間は周りのものと多様な関係をつくったのだ。
人間は自然のものとさまざまな関係をつくっています。食物を採るということで、草、木の実、魚、貝、動物などと関係を持つ。消化能力が弱いため生で食べることに限界があって火と関係をもつ。そして薪と関係を持ち、一人で生きていけないほど弱いから家族を形成して生きてきました。
自然と多様な関係をつくるために、道具をつくり、畑をつくり、そして結果として文化や文明をつくってきた。
~~~
文化や文明をつくったのは、人間が優秀だからではなく、人間が弱いから、か。
これ、いいですね。
そして、本題のアイデンティティ問題へ。
~~~
人間は片方ではつねに関係性を世界に身を置き、一方では自己を形成しようとしてきました。
そのやり方としてヨーロッパでは水平的な関係の中で自己形成してきたし、日本では自分を深めるという垂直的な自己形成をしてきた。
ヨーロッパでの個の形成は、社会が生者たちの世界ですから、生きている人たちの中で共同性をつくり、個を形成していきます。日本の社会は生者と死者と自然でできていますから、生者と死者と自然の関係のなかで自己形成をしてきた。そしてその結果何を手に入れようとしたかといえば「永遠性」です。
永遠性とは何かというと、日本の人たちが感じていた永遠性は「おのずから」をみつけだすことだったと考えています。
自己形成をめざしながら自己消滅をめざす。自己形成を達成すると自己が消滅する、そういう非常に複雑な世界を形成してきたのです。
たえず自分の役割がどこにあるかをみつけ、それを実現させていく。それが自然におのずからなる生き方になっていく。つまり自分の意思で動くのではない、役割で動くということです。
~~~
「おのずから」(自然=じねん)を意識し役割を演じること。それが日本人の理想の生き方だったということです。
最後に日本人的メンタリティとしての「哀しさ」と「許す」そして「信仰」について。
~~~
「許す」というのは共同体で生きる知恵でもありました。人々を許しながら生きることで、発生してくるいろいろな問題の解決をしてきたということでもあります。人間たちの片方にはおのずからなる永遠の社会がある。そこに行こうとするが生ききれない人間の存在がある。そこに人間の哀しさがある。
それを哀しさと見ることで他者を許すことができる。その精神を基盤において折り合いをつけていく共同体の世界をつくった。過去と未来をつなぐ世界をつくろうとした。
「おのずから」とは人為的ではないといっているだけで、本当のところ何が「おのずから」なのか、よくわからない。だけれども、そこにこそ本当のあり方があるというのです。
なぜなら人間は哀しいもので、自己を追究したり主張したりするわけで、当然争いや対立も起きてきます。それで許し合いながら共同体を維持していく生き方は、共通の「願い」や「祈り」が根底にあり、自然(じねん)に対する共通の祈りを共有しながら、伝統社会の民衆の生活を形成されてきたのです。
~~~
共同体が続いていくためには「願い」「祈り」そして「自然(じねん)」に対する共通認識があることが必要だった。
しかもその「自然(じねん)」には、聖書のように単一の回答がない。
そういう世界観を生きてきたんだなあと。
オンラインイベントの話に戻るけど。
今回のイベントは、阿賀のみんなにとっての研修だった。
その研修の目的とは、「ゴールの共有」ではなく、「問いの共有」あるいは、「ベクトル感の共有」だったのかもしれない。
「学校じゃない教育」という問いから始まる3人の発表と、公営塾、寮、ブックカフェがある阿賀という場の持つ力。
たとえば「教育はだれのためにあるのだろう?」という問い。
そこに対して対話をしていくこと。
答えがない。
でも進んでいく。
その時に必要なのは、暫定的な答え(ゴール)というよりは、問いそのものなのかもしれない。
問いに対しての仮説をやってみて、ふりかえること。
かつて日本の共同体が「おのずから」という問いを持って生きたように答えのない問いを共通に持てば、それが「願い」「祈り」となっていく。
もうひとつ私たちがアイデンティティを考えるとき。そこには「自然(じねん)」、つまり「おのずから」と「みずから」について考えるという出発点が必要なのではないか、と。
内山さんが言う「おのずから」と「みずから」の関係。
「おのずから」は自然とそうなること。「みずから」は自分が自ら主体的にやること。すべて「おのずから」を見定めてから「みずから」やる。
そこから始めてみようと思った。
その問いが、僕たちを結びつけているのかもしれない。
「ローカリズム原論」(内山節 農文教 2012刊)
もんもんとした違和感が残るオンラインイベントのあとの電車読書はこの1冊。
とあるブックカフェで目に留まって購入しました。
第3章 日本人にとって個とは何か
まさにアイデンティティの問題ですね。
面白かったのでたくさん引用します。
~~~
個の確立とは何か。欧米社会における個の確立は、横の関係でつくられていると考えればよい、つまり他人に対して自分を主張するかたちで個をつくり上げていく。他者との違いを際立たせるという関係のなかで個を確立していくのが欧米的な個の確立です。それに対して日本人は伝統的に、自分を深めるとか自分を究めるということに個の確立を求めてきました。
日本人が自分をつくろうとすると、他人との違いはどうでもよい、それよりも自分の追求したいことをとことん究めたくなる。ひたすら下へ下へと穿っていく。そういう感じで個を確立しようとします。
~~~
なるほど。他者との違いによって個(アイデンティティ)を確立するのは欧米的なのですね。
「差別化によるセルフブランディングを」とか言っている人には「欧米かっ」って突っ込んだ方がいいですね。
そして今朝イチの衝撃。人間はなぜ文化・文明をつくってきたのか。
よくあるのは、2足歩行の実現により脳が発達して、道具を使えるようになって・・・
と説明されてきたわけで。
その視点で見ると、共同体や関係性づくりも「生きのびるための道具」と位置づけられてしまうが、内山さんはそれを否定します。
~~~
人間は非常に弱い動物として地球上に生まれてきた、と考えています。
人間というきわめて弱い生き物が生き延びようとした方法として、人間は周りのものと多様な関係をつくったのだ。
人間は自然のものとさまざまな関係をつくっています。食物を採るということで、草、木の実、魚、貝、動物などと関係を持つ。消化能力が弱いため生で食べることに限界があって火と関係をもつ。そして薪と関係を持ち、一人で生きていけないほど弱いから家族を形成して生きてきました。
自然と多様な関係をつくるために、道具をつくり、畑をつくり、そして結果として文化や文明をつくってきた。
~~~
文化や文明をつくったのは、人間が優秀だからではなく、人間が弱いから、か。
これ、いいですね。
そして、本題のアイデンティティ問題へ。
~~~
人間は片方ではつねに関係性を世界に身を置き、一方では自己を形成しようとしてきました。
そのやり方としてヨーロッパでは水平的な関係の中で自己形成してきたし、日本では自分を深めるという垂直的な自己形成をしてきた。
ヨーロッパでの個の形成は、社会が生者たちの世界ですから、生きている人たちの中で共同性をつくり、個を形成していきます。日本の社会は生者と死者と自然でできていますから、生者と死者と自然の関係のなかで自己形成をしてきた。そしてその結果何を手に入れようとしたかといえば「永遠性」です。
永遠性とは何かというと、日本の人たちが感じていた永遠性は「おのずから」をみつけだすことだったと考えています。
自己形成をめざしながら自己消滅をめざす。自己形成を達成すると自己が消滅する、そういう非常に複雑な世界を形成してきたのです。
たえず自分の役割がどこにあるかをみつけ、それを実現させていく。それが自然におのずからなる生き方になっていく。つまり自分の意思で動くのではない、役割で動くということです。
~~~
「おのずから」(自然=じねん)を意識し役割を演じること。それが日本人の理想の生き方だったということです。
最後に日本人的メンタリティとしての「哀しさ」と「許す」そして「信仰」について。
~~~
「許す」というのは共同体で生きる知恵でもありました。人々を許しながら生きることで、発生してくるいろいろな問題の解決をしてきたということでもあります。人間たちの片方にはおのずからなる永遠の社会がある。そこに行こうとするが生ききれない人間の存在がある。そこに人間の哀しさがある。
それを哀しさと見ることで他者を許すことができる。その精神を基盤において折り合いをつけていく共同体の世界をつくった。過去と未来をつなぐ世界をつくろうとした。
「おのずから」とは人為的ではないといっているだけで、本当のところ何が「おのずから」なのか、よくわからない。だけれども、そこにこそ本当のあり方があるというのです。
なぜなら人間は哀しいもので、自己を追究したり主張したりするわけで、当然争いや対立も起きてきます。それで許し合いながら共同体を維持していく生き方は、共通の「願い」や「祈り」が根底にあり、自然(じねん)に対する共通の祈りを共有しながら、伝統社会の民衆の生活を形成されてきたのです。
~~~
共同体が続いていくためには「願い」「祈り」そして「自然(じねん)」に対する共通認識があることが必要だった。
しかもその「自然(じねん)」には、聖書のように単一の回答がない。
そういう世界観を生きてきたんだなあと。
オンラインイベントの話に戻るけど。
今回のイベントは、阿賀のみんなにとっての研修だった。
その研修の目的とは、「ゴールの共有」ではなく、「問いの共有」あるいは、「ベクトル感の共有」だったのかもしれない。
「学校じゃない教育」という問いから始まる3人の発表と、公営塾、寮、ブックカフェがある阿賀という場の持つ力。
たとえば「教育はだれのためにあるのだろう?」という問い。
そこに対して対話をしていくこと。
答えがない。
でも進んでいく。
その時に必要なのは、暫定的な答え(ゴール)というよりは、問いそのものなのかもしれない。
問いに対しての仮説をやってみて、ふりかえること。
かつて日本の共同体が「おのずから」という問いを持って生きたように答えのない問いを共通に持てば、それが「願い」「祈り」となっていく。
もうひとつ私たちがアイデンティティを考えるとき。そこには「自然(じねん)」、つまり「おのずから」と「みずから」について考えるという出発点が必要なのではないか、と。
内山さんが言う「おのずから」と「みずから」の関係。
「おのずから」は自然とそうなること。「みずから」は自分が自ら主体的にやること。すべて「おのずから」を見定めてから「みずから」やる。
そこから始めてみようと思った。
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