2020年07月07日
グラデーションな人生
オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。
ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」
⇒
って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。
ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。
でも。
そんな簡単に変わらないよね。
東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。
ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。
僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。
成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。
そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説
というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。
「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)
P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html
「個食」とは何か?についての深い考察。
~~~ここから一部引用
人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。
杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。
「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。
どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。
もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。
同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。
共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。
それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。
~~~ここまでメモ
あー。面白い。
とくにこれ。
同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。
そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。
このブログが書かれて14年が過ぎているが、
東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。
こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、
そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。
グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。
ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」
⇒
って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。
ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。
でも。
そんな簡単に変わらないよね。
東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。
ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。
僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。
成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。
そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説
というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。
「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)
P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html
「個食」とは何か?についての深い考察。
~~~ここから一部引用
人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。
杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。
「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。
どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。
もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。
同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。
共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。
それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。
~~~ここまでメモ
あー。面白い。
とくにこれ。
同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。
そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。
このブログが書かれて14年が過ぎているが、
東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。
こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、
そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。
グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。