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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年05月19日

人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校

人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校
「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

この本、面白いです。
不登校は、「学校からの逃走」ではなくて「学級(というシステム)からの逃走」なのではないか、って。
「効率的な学校、あるいは(工業)社会」に適応する必要なんてあるのだろうか?っていう問い。

ということで第2章を読み進めていきます。
キーワードは「モニトリアル・システム」です。

第2章 「クラス」の誕生と分業される教師

~~~ここから引用
誰が、何を、いつ、どこで、学ぶのか、現代の学校ではあらかじめすべてが事細かに決められ、それが具体的に時間割に示されている。しかし、伝統的な学校では、目の前に座っている生徒が誰かによって、教える内容やレベルをその場で決めたのであろう。現代の感覚からすれば、「計画性のない場当たり主義」と批判がされそうであるが、かつてそれは学校の当たり前の姿であった。

昔の学校は場当たり主義であるために、「学級」を明確にして、担任と習う生徒と教育内容、そして時間と場所をあらかじめ明確に決めておく必要などなかったのである。逆に「学級」を持つ学校とは、教えることにかかわる様々なことが事前に計画された世界であることを物語っている。
~~~

そして、革命が起こった。
19世紀初頭にロンドンのサザーク地区で始まった「モニトリアル・システム」だ。

~~~以下引用
それまでにない生徒の編成の仕方と教え方をした風変わりな学校が出現した。どのように変わっていたかというと、それまでの学校のように教師(マスター)が生徒に教えるのを止め、代わりにモニターと呼ばれる生徒が、他の生徒に教え始めたのである。

教師は生徒の中から比較的優秀な、あるいは年長のものを選び出し、彼らに最初に3R's(読み書き計算)を教えた。次いでモニターと呼ばれたこれらの生徒がそれぞれ、約10人の生徒のグループを相手に、自分が習った3R'sを教えたのである。すなわち、教師が直接生徒に教えるのではなくモニターたちが他の生徒に読み書きを教えた。

この学校では、読み方と計算の能力で生徒を分けた。この分けられた生徒の集まりが「クラス」と呼ばれたのである。

つくったのは若干20歳の青年、J・ランカスターだった。彼が父親の家を借りて最初の学校を作ったのは1798年のことであった。面倒見の良さがあって、貧民街の多くの子どもたちが集まってきたために、伝統的な1対1の教授法では対応できなくなってしまった。

ところが、助手の数を増やすと、当然授業料を上げなければならない。それでは貧民街の生徒にとって大きな負担となる。授業料の値上げをせず、しかも多人数の生徒を教えるという問題にランカスターは直面したのである。

そこで思いついたのが生徒が生徒に教えるという相互教授法であった。1810年、ランカスターは自分の学校の運営方法を書いたマニュアル本の中で、「教育を経済的に実施するためには、助手に代えてより効率的な代替者を工夫することである。代替者として助手の代わりに生徒が教えるためには、秩序と教授のシステムを単純化する必要がある」とモニターを使った理由を説明している。

生徒が生徒に教えるわけであるから、複雑な内容を教えたり、複雑な方法を採用したりすることはできない。子どもでも教えられるように、教授活動をいかに単純化するかということが、彼の追求した中心テーマであった。
~~~

すごいソーシャルビジネスなんですね。「学級」の起源は。

ところが、です。

~~~
モニトリアル・システムは、伝統的な学校のあり方を一変させる画期的な学校として誕生した。そしてまたたく間に、そしてさらにヨーロッパ大陸はおろか、アフリカ大陸、アメリカ大陸まで広まっていった。常識的感覚で言えば、学校の歴史に革命的変化をもたらしたこのモニトリアル・システムには最大限の賛辞が送られ、また開発したベルやランカスターの名声は後世に伝えられるべきものである。

しかしことは逆に進んだ。ルソーやペスタロッチの思想を基盤に広がった進歩主義教育思想の立場から、モニトリアル・システムが行った丸暗記や機械的注入主義の教育を批判された。子どもの自発性、自主性を尊重した教育の重要性を訴える人々からは、現実に多くの貧しい子どもに「より早く」「より安く」3R'sを教えたにもかかわらず、批判され、歴史的に抹殺されてしまったのである。
~~~

そうなのか。だから私たちは知らないのかもしれませんね。しかし、このシステムが生まれた当時の人々は、モニトリアル・システムを機械装置になぞらえ、礼賛したのである。

~~~
礼賛にとどまらず冷静な社会科学的眼で観察していたT・バーナード卿は、モニトリアル・システムを「ニューシステム」伝統的学校を「オールドシステム」として、オールドシステムの欠点を10点にわたって指摘した。その主な内容は、オールドシステムが少人数の生徒を対象とし、学習が偶然性にゆだねられ、計画性を欠き、ロスの多い不安定な学校であるという点である。

「オールドシステム」の欠陥を指摘しながら、同時にこのような問題を克服しえたとして「ニューシステム」がはるかに優秀であることを彼は力説した。この場合、彼が優秀性を実現した最大の理由として強調するのが分業制の採用である。「工場の原理と学校の原理は同じである」として、進行しつつあった産業革命における機械的生産、そして機械による生産を行う向上に学校をなぞらえている。新しい学校の存立の背後に分業制が存在することを、彼は鋭く指摘したのである。
~~~

こうして「学校」は分業化されることとなった。

~~~
モニトリアム・システムも伝統的学校と同じく1つの教場しか備えていないが、ここでの教場は、徹底的に分類され、それぞれの場所が機械的に特化されており、伝統的学校の雑然とした教場空間とはまったく異なっていた。マスターが座るプラットフォーム、生徒が座る机と椅子、モニターが待機すべき位置、書き取りによる教授が行われる場所、読み方と質問による教授が行われる場所、教材を吊るす壁の位置、教具を収納すべき場所、さらには生徒がスレートを吊るす位置が詳細に定められている。生徒が座る机やステーションは、能力別に序列化された生徒の分類に対応させられている。
~~~

すごい「システム化」なんですね、モニトリアム・システムという革命は。
さらに分業について「垂直方向」へも進んだと本書ではつづきます。

~~~
モニター間の分業は水平的であったが、分業制はさらに垂直的にも進行した。専門化し、細分化されたモニターの活動は、教師(マスター)が全体を管理することによってようやく意味を持つ。

何を、どのクラスで、どの時間で教えるか、モニターに決定権はなく、すべて管理者としての教師の計画と命令に従って行動しなければならない。ここで教師のあり方に決定的な転換が生じた。すなわち伝統的教師像は解体されてしまい、管理し、計画を練る人間と、計画に従って教えることのみに専念する人間とに分解され、何についても自己決定しうる伝統的教師はここでは消失したのであった。

よく知られているように、このような企画・設計機能と作業機能の分離という垂直的分業化による自動車の大量生産を20世紀初頭に始めたのがフォードシステムであった。しかしそれより100年も以前に、教授活動においてこの垂直的分業が実現していたのであった。
~~~

フォードの100年も前に、分業が成立させた「モニトリアル・システム」。
その出発点は貧民を「効率的に」救いたい、ということだった。

しかし、このシステムは高度に機械化・工業化されつつあった時代・社会にマッチした。
ハンバーガーは初めとするファーストフードチェーンは同様のシステムを持っていた。

つづきます
~~~
サービス業への分業制の導入としてモニトリアル・システムをみた時、また新たな姿がクローズアップされてくる。それはこれまで個々の顧客に対応してきた教授活動が、セットとして組み合わされ、パッケージとして提供されるということである。平たくいえば、顧客の個別の要求は無視して、画一的なサービスを提供し始めた。典型的には、それらはファーストフード店におけるセットメニューであったり、旅行業界におけるパックツアーであったりする。

モニトリアル・システムが始めた経営企画機能と作業機能の分離という垂直的分業化は、現場作業の単純化、効率化を、パッケージによる一括処理方式で実現可能としたのであった。クラスはこのサービスのパッケージの産物として生まれた。したがってそれは人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。具体的には学校は、クラスというパッケージを通じて一括した教育サービスを提供する組織となったのである。クラス制を導入し、時間通りに動くこの学校は、顧客としての生徒の好みやリズムを無視して成立する学校であった。モニターの行動が流れ作業の中で規律化され、個人の判断で動くことは許されないだけではなく、顧客としての生徒もまたこの流れ作業の中に投げ込まれ、規律化されたのである。
~~~

うわー。
いわゆる「構想と実行の分離」は、学校でも起こっていた。むしろ工場よりも先に起こっていたのだった。

もちろん、メリットもあった。
しかも当時の情勢からすれば切実なメリットだ。

~~~
ランカスターの学校は、彼が計画したように分類すれば、簡単に開校できる学校であった。すなわち今日みることができるチェーン・システムの店舗は、施設の設計がみな同じであり、すぐに建設できる。アルバイトを集め、すでに存在するノウハウに従ってサービスを提供すれば、これまたすぐに営業を開始しうるのである。同様に、モニトリアル・システムも、モニターを訓練しさえすれば、どこでも学校を簡単に開きうるようになった。
~~~

誰もに教育の機会を、という点ではモニトリアルシステムは画期的だったのだなあと改めて思った。

第2章は、モニトリアルシステム/1つの教場で教えることの限界を示して締めくくられる

1 3R's以外の教科については、モニターは教えられない
2 1つの教場内に同時並行でクラスが進行しているので騒音がすごい
3 規律と権威のみによる秩序の下では生徒の授業への関心が維持できない
~~~
なんか、現在の教育の課題とオーバーラップしてきますね。
つづきます。

今日はあらめてここについて。
~~~
サービス業への分業制の導入としてモニトリアル・システムをみた時、また新たな姿がクローズアップされてくる。それはこれまで個々の顧客に対応してきた教授活動が、セットとして組み合わされ、パッケージとして提供されるということである。平たくいえば、顧客の個別の要求は無視して、画一的なサービスを提供し始めた。典型的には、それらはファーストフード店におけるセットメニューであったり、旅行業界におけるパックツアーであったりする。

モニトリアル・システムが始めた経営企画機能と作業機能の分離という垂直的分業化は、現場作業の単純化、効率化を、パッケージによる一括処理方式で実現可能としたのであった。クラスはこのサービスのパッケージの産物として生まれた。したがってそれは人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。具体的には学校は、クラスというパッケージを通じて一括した教育サービスを提供する組織となったのである。クラス制を導入し、時間通りに動くこの学校は、顧客としての生徒の好みやリズムを無視して成立する学校であった。モニターの行動が流れ作業の中で規律化され、個人の判断で動くことは許されないだけではなく、顧客としての生徒もまたこの流れ作業の中に投げ込まれ、規律化されたのである。
~~~

内田樹先生の「教育のお買い物化」に通じるところがあるなあと。そして、教育が消費者的な人格を刺激している、ということも。「構想と実行の分離」もまさにこれだなあと。

人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。

「教える」ってなんだろう?って。
「カリキュラム」ってなんだろう?って。
僕たちは「教育を提供」したいんだろうか?って。

刺さりまくる問い。

こんな問いを胸に「ともにつくる」を実践していきたい。

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Posted by ニシダタクジ at 09:22│Comments(0)日記学び
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