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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年05月26日

「学級」「学校」「教育」という幻想


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

終章 変わる学級制-共同体幻想からの脱却

読み終わりました。

自分のアイデンティティを揺るがす1冊となりました。
武者震いというのでしょうか。先の見えない不安なのかもしれません。
この道でよかったのだろうか、と揺さぶられます。
著者の柳先生に「このタスキ、たしかに受け取ったよ」って言いたい気分です。

角川・ドワンゴ学園が挑んでいるのは「学校」ではなくて「学級」というシステムなのかもしれませんね。

さて。
終章からもいくつか引用を

~~~
ハードウェアが見えなければ、学校をめぐる議論は、ソフトウェアを中心とした教育論の中に閉塞していく他はない。

明確に自覚されなくとも、実際にはチェーン・システムとして動いているために、学校は随所で、機械的性格、限定的性格、そして画一的性格を表面化させる。しかしチェーン・システムとして動いていることが見えなければ、学校が提供する教育は明らかに貧相な、あるいは否定さるべき教育としてしか目に映らない。ここから、画一教育や個性無視の教育という批判や、「子どもの自発性を大切にしていない」などの批判が次々に学校に投げかけられてくる。

チェーン・システムとしての学校はその成立過程で、他のチェーン・システムのサービスと同様に、一括処理による画一的教育法を採用し、児童・生徒の個性や自発性を意図的に無視してきたという側面があることは否定しえない。だから粗末な教育だと批判することはいつでも、そして誰でも簡単にできる。しかしそれは、本当の学校批判になりえているのだろうか。それは既製品しか売らないことを標榜している店で、「あつらえ物がない」と騒ぎ立てることと同じく、単なるないものねだりの、あるいは的はずれの批判ということでしかないだろう。

3R'sの伝達を中心に組織を整備してきた学校は、子どもの生活の一部にしかかかわっていなかったはずである。しかしハードウェアが持つ限界が理解されなければ、子どもをめぐるすべての問題が関係あるとして、学校に背負わされることとなってしまう。「しつけは学校でやってほしい」「地域でのボランティア活動は学校が推進してほしい」「繁華街での補導は学校でやってほしい」「青少年の非行は学校教育に問題があるからだ」というように、ありとらゆる事柄が学校の仕事とされてしまう。
~~~
比較不能であるがゆえに現代人は、自分を学級制という特異なシステムの影響を受けた存在として自覚することができなくなった。しかし事前制御や自己抑制という仕組みの異常性を十分に理解すれば、われわれが学級制という長期にわたって人間の行動を規制する装置の中に身を置くことによって、特異な性格形成を余儀なくされていることを、否定しえなくなるだろう。

就学期間の長期化は、学校外社会における異年齢集団の解体と同時に進行した。柳田國男が指摘したように、かつて学校外の伝統的な異年齢集団と、学校に導入された同年齢集団が共存した時期があり、青少年はこの異質な集団の双方にかかわりを持っていた。

集団所属の二元性とは、学級非体験的自己が生きた世界が根強く存続していたことを意味する。学校教育を通じて得た知識に対し、経験を通じて獲得された知識がいまだに社会的に正当な評価を獲得し、また、そのような人物の影響力は決して弱くはなかった。また当然のこととして、学級非体験的自己からの、学級体験的自己へと向けられた批判が存在した。このような力が存在する限り、学級体験的自己のみが自己増殖し始める他はない。われわれが生きている今とは、このような時代なのである。
~~~
学級制とは、あくまでも義務教育制度が効率的教育の」ために作り上げられ、そして事前制御を伴う必要悪である。それは3R'sを児童・生徒に確実に教えるために開発された機能集団であり、自己抑制に見合った学習満足度を与え、収支の釣り合いを確実に実現しなければならない。このことを確認した上で、学級制の中にどれだけ青少年を入れ込むべきかを議論すべきであろう。

わが国では、この問題をあまりにも無頓着なまま、学級を共同体として理解し、人間関係を育む場として楽観的にとらえ、その結果、きわめて長期にわたる学級生活を、青少年に強いていることになってしまった。

学級制は、生徒の意識、感性の変化にまったく無頓着であった。否、むしろ1960年代の高度成長期に、生徒の意識が個人化しはじめたころに、集団作り、仲間作りというようなスローガンが、教育界でもてはやされた。生徒の意識や生活様式の個人化に対応して学級制を弾力化するのではなく、逆に集団形成を強化する方向へと向かったのである、したがって、日常生活のいろいろな分野で脱共同体的生活様式が一般化しているのに、学級制のみが、依然として共同体的性格を濃厚に持ったまま、現在にいたっている。
~~~

これはすごいですね。まずは「学級非体験的自己」。坂本龍馬も西郷隆盛も体験していない「学級」。
いつのまにか、私たちは「学校」=「学級で学ぶもの」ということを前提にしてしまった。
そして「教育」=「学校」だといまだに思っている。

事前制御され自己抑制を強制するパックツアーとしての「学級」についてあらめて考えること。
それによって青少年はどのように影響を受けるのか。

僕たちが学校外で、あるいは学校と一緒に取り組むべきことは何か?
「学級」というシステムそのものに働きかけることは可能なのか?
われわれ自身が「探究」の授業を「事前制御」していないか?

「学級」って
「学校」って
「教育」って
「学校と地域の協働」って
「生きる力」って
いったいなんなのか。

苦しいくらいもやもやが募る1冊となりました。
柳先生、ありがとうございました。
このタスキ、たしかに受け取りました。  

Posted by ニシダタクジ at 13:36Comments(0)学び日記

2023年05月26日

「自分できめる」を奪う「学級」



「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

第六章 学校病理の解明

いよいよ佳境にはいってきました。残り僅かです。
今回もひらすらメモしていきます。

~~~ここからメモ「報われない自己抑制」

1 パックツアーと違い、意図的に参加するのではないから、参加者すなわち生徒の目的が脆弱。
2 目的達成としての手段として学級を位置づけたり手段としての規律化、自己抑制を受け入れるのが困難。
3 規律化された代償としての成績上昇が誰にでも保証されるわけではない。
4 「学級」が共同体言説によって生活集団化することで事前制御という目的達成のための手段が無視される。
5 教育評価は教師が生徒に行い、生徒は評価できない。

学級制は明らかに、特定機能充足のためのパッケージとして生まれた。そしてそれは分業制の産物であった。しかし、わが国において学級制が導入された明治時代の後半は、いまだに社会における分業制の展開が制約されていた時代であった。このような社会が、機能限定的な「学級」という集団形態を素直に受け入れるはずはなかった。むしろ自給自足的な生活を続けてきた村落共同体の生活の論理が、そのまま「学級」の中に入り込んでも不思議ではない。

「学級」が機能集団であれば、子どもの生活の一部分を「学級」が占めるに過ぎない。逆に「学級」が生活共同体化するということは、「学級」が日々の生活のすべてをおおい、支配することを物語る。「学級」は多様な活動を抱え込み、「重たい学級」となる。多様な活動の抱え込みと事前制御や自己抑制は相容れない。ここではハードウェアとソフトウェアとの完全な不一致が発生する。

逆に「軽い学級」であれば、学級の活動は学習機能に限定され、自己抑制をした分の代償として、成績向上という成果がもたらされねばならないという自覚が生まれやすい。習う側に、自己抑制して教師の話を聞く目的が明白であれば、また授業の成果に対する判断も明確となる。また、毎日の授業に目的意識を持って臨む態度が形成される。

しかしいろいろな活動を吸収した「重たい学級」では、このような学習に対する目的意識は形成されず、自己抑制と満足との均衡感も自覚されにくい。このような「学級」の中での生活とは、目的を知らないまま、あるいは達成感を感じることもなく、自己抑制を継続することに他ならない。自己抑制は自己目的化し、児童・生徒はひたすらまじめであることが求められる。あるいは、まじめであることが、しばしば教育効果が上がった成果として強調される。
~~~

なるほどなあ。「重たい学級」か。
このあと、スルドい一言が待っていました。

~~~
事前制御された生活に有無を言わさずに組み込み、そしてさらなる自己抑制を求めておきながら、提供された活動に楽しみを見いだせと求める大人の勝手な論理が、生徒たちにそのまま通用するとは思われない。

学級集団作りや仲間作りが持つ問題も、ここにある。一方では児童・生徒は事前制御という見えない学校の強烈な組織化のテクノロジーに支配され、自己抑制して、感情的に行動することを厳しく制限されている。さらに、名誉の獲得をめぐって、恒常的な競争状態にある。このような学級空間の独自の力学が作用する中で、彼らが教師の命ずるままに、緊密な人間関係を維持したり、統一された行動をとりうるはずがない。
~~~

著者は、いじめや学校外での逸脱行動の原因もこのような学級における代償充足不全状況がもたらすと説明する。事前制御された環境における自己抑制に対して、学校はほとんどなんの代償も払ってはくれない。

さらにおそろしい文章がつづきます。

~~~
事前制御されることは、学習活動が他律的に進行することに他ならない。この事前制御された「学級」の中で生活するには、児童・生徒が自己の方針を明確に持っていたり、強固な意志を持つ存在であったりしてはならない。

学校は、学校に行きたくないという生徒の存在を承認してはならないだけではなく、自分のペースで学習を進めたいという生徒の存在も認めてはならないのである。そのためには学校は児童・生徒を無力化し、彼らが学校秩序に従順になるように仕向ける必要がある。

時間割というわれわれにはありふれた紙切れが示すことは、教科の好き嫌いや、優先順位に関する自己決定権を児童・生徒に認めていたのでは学校の一斉授業は成立しないということである。児童・生徒を無力化し、彼らから学習過程に関する自己決定権を剥奪することによって、ようやく「学級」という教授活動は成立しうる。「学級」という事前制御空間は、あえていえば、児童・生徒の自己決定権の剥奪という人権侵害をすることによって成立する集団である。このことを強要しない限り「学級」も、そして一斉授業も成立しえない・
~~~

さらに著者はさらに過激になり、軍隊や刑務所、隔離病棟のような「全制施設」に学校はきわめて類似していると指摘する。教師と生徒の情報格差についてもそのプロセスの一部だという。

~~~
かくして、自分の生活の細部まで知り尽くされ、秘密を持つことができなかったり、自分のペースで生活することが承認されなかったりした場合、人間は次第に無力化されていく他はない。無力化は、命令を下したり校則を制定したりというような可視化レベルでのみ進行しているのではなく、自明のこととして受け入れられた身体検査、試験、教師による観察など、児童・生徒に関する情報蓄積のあらゆる方法によって促されているのである。

このような単なる無力化の方策では、児童・生徒の積極的な学習意欲は生まれてこない。

司牧関係は、信者が自分の罪を自覚することから始まる。罪深い存在の人間が、死後の世界において救われるためには、神を畏れる人間にならねばならないし、また救われるためには、神の意にかなうように被虐的なあるいは自己否定的な努力を積み重ねなければならない。司祭こそが信者に絶対的な神への従順性を培い、なおかつまた激しい自己否定的な努力を促すのにかかすことができない存在である。

学校秩序が安定するには、原罪意識を梃子にして「自分は教師に導かれ、教わらねばならない未熟で怠惰な存在である。」という自己確信を生徒に持たせねばならない。

しかし世俗化された学校でこのような濃密な宗教意識をかき立てることは次第に困難になる。従順性と積極性を同時に獲得する技術は、宗教から離れて、功利的な栄光や立身出世という、未来の生活にかかわる夢を提供するように変容していく。「現在の自己に甘んじることなく、将来のよりよい生活を目指して努力し続けなければならない」という先に期待をつなぐ成功神話を生徒に植えつけることほど、学校が生徒を秩序に馴致させ、また積極的学習態度を作り上げるのに効果的な方法はない。

学校秩序は、「未来志向の物語」を必要とするのである。「自分の将来は学校教育の成果にかかわっており、教師に依存することなしには将来の成功はありえない。」という意識をいかに生徒の頭の中に作り上げるかに学校秩序の維持はかかっている。

空手形とわかっていても、ともかく未来に眼を向けさせねば、学校秩序はおろか、教師の支配の正当性も危機に瀕する。しかし、超越的な神の存在を前提とした現在意識と自己抑制の文化そのものが存在しないわが国で、罪の意識を醸成するにはひと工夫が必要であった。

それは、他の生徒には内緒で個別的な教師・生徒関係を作り上げ、教師の期待に背く自分を負い目に感じるように仕向けることであった。「先生は自分の将来のことをこんなに心配してくれているのに、私が怠けたのでは申し訳ない」、あるいは「先生の励ましにもかかわらず、成績が上がらないのは、私の努力不足が原因である」という負い目に基づく罪の意識を生徒の中に生み出すことが、教師にとってもっとも必要であったのである。
~~~

なんというマジックなのでしょう。
「学級」を機能させることが目的なのでしょうか。

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自己決定しないということは、自分で自分の将来を描きえなくなることでしかない。日常生活の些細な事柄に関する選択と決定の絶えざる繰り返しが、将来の自己イメージを決定する重要な契機である。未来の自己実現という美味しい果実のために、現在の欲望を抑え込むことが、すなわち自己抑制と達成感との収支関係が釣り合うことが、そもそもの出発点であった。しかしこの些細な決定を放棄することは、結局は将来の自己を決定する能力を放棄することとなる。
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「自己できめる」力を知らず知らずに奪われていくって怖いことだなと。
さらに、もっとも恐ろしい「ダブルバインド」の話が。

~~~
事前制御という統制を受けていることを意識の上で自覚しないだけで、身体はこの制御の中にある。そして意識は、自由とか主体性とかの言説を信奉している。身体は意識しなくても統制され、意識にのぼる言説では、自由や主体性が強調される。教師も生徒もこの二つの命令によって動かされる時、彼らは完全なダブルバインドの落とし穴に入り込まざるをえない。

事前制御という特別の操作が加えられた世界に児童・生徒を閉じ込めておき、従順性を養い、無力化に努めながら、他方では教育言説により、「いきいきと」とか、「のびのびと」とかの言葉を乱発し、積極的、能動的態度や行動を求めて働きかける。また、あらゆる方法を通じて、児童・生徒に関する情報を獲得し、圧倒的な情報の格差を一方で作り上げながら、「共に学ぶ」とか「「共感的理解」とかいう言説のもと、教師は彼らとの間に、友達同然の関係を作るように促される。
~~~

いやー、学校とか学級ってすごい無理ゲーだなあと。「教育」、「学級」というシステムを作り上げるプロセスの中で、いつのまにか「学級」を機能させること自体が目的化してしまったのだ。

最後のダブルバインドの話もそうだけど、誰のためのシステムなんだろうって。

水戸にいるときに参加した「ジュニアエコノミーカレッジ」は小学校5・6年生が屋台を企画し、何かを売ってみる、というプログラムだった。そのプログラム中に再三言われるのが、「自分できめる」だった。

いま。学校で、学級(教室)で、子どもたちが直面している環境ってなんなんだろう。

「答えのない時代・社会が到来している」という言葉に、誰もが納得しているのに、学校は、学級は、事前制御されたハードウェアに教師も生徒も縛られた上で、「こどもが主役」などという聞こえのいいソフトウェアがまん延しているというダブルバインドが教師と生徒双方を覆っている。

なによりも「自分できめる」という機会を奪い続けることで失われることのほうが大きい僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)学び日記