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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年02月06日

呼びかけに応えるという「存在」の承認


「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)

読み終わりました。
第3章もシビれましたね。

キーワード的にはやっぱり「身体性」とか「アイデンティティ」とか、まさにこのタイミングで。
そして、土曜日に大学生と話していた風舟の新サービス「緒(いとぐち)」のことも、つながってきてビックリしました。

~~~ここから引用
オンライン授業の最大の欠点は教育が「オン・デマンド(on demand)」になるということです。

レストランのメニューを見て、オーダーするようなものだと、注文するのは「食べたことのある料理」に偏ります。どんな味で、どんな栄養があって、どのくらいのカロリーであるかの情報が事前に開示されている選択肢の中からしか選ぶことができない。

こういう知識、こういう技術を身につけたい、こういう資格や免状が欲しいという学生たちの側に「プロセス・チャート」があって、その工程表に従ってこつこつと履修して、単位を集めて、卒業する。そこに限定されてしまうというのが「オン・デマンド」教育の最大の難点です。

実際には、どんな科目を履修して、どんな専門分野を選んで、どんな研究室に所属することになったのかって、おおかたが偶然なんですよね。大学教育の実態は「バイ・アクシデント(by accident)」なんです。その偶発性のうちにキャンパスライフの豊かさはあると僕は思います。
~~~

なるほどなあ。オンライン授業によって奪われたものは「身体性」と「偶発性」か。
それこそがキャンパスライフの豊かさだったはずなのに。
「授業料」とは、授業を履修するために払うものではなく、身体を使って、偶然をキャッチするためのものだと気づいたのかもしれない。

そして、次の学校には「呼びかけ」がある、は面白かった。

~~~ここから引用

「学園マンガ」の世界では、主人公たちは誰一人予定通りの学生生活を送ることがない。思いもよらない出来事に「巻き込まれる」ことで学園生活が生き生きとしたものになる。これはすべての「学園マンガ」に共通しています。このパターンは、子どもたちの無意識的な願望を表現していると思います。

いま学校では、小学校から将来設計を書かせて、その目標を達成するために、いつ何を学ぶかまで工程表を作成することを義務づけようとしています。「買い物リスト」を手にしてスーパーに買い物に行くような気分で、自分の学びの過程を一望俯瞰することを子どもたちに強要している。

(中略)

子どもたちが求めているのは、「まだ知らない世界」に入ることだからです。思いがけない冒険に巻き込まれることだからです。

子どもが小学生の時に描いたシンプルな「地図」を手にして、わき目もふらずに歩き続け、どんな出来事が起きても、どんな呼びかけがあっても、一切の外部情報を遮断して、目的地をめざすということをさせて、いったい何をしようというのでしょう。

学校で子どもたちが経験するのは「呼びかけ」です。誰かに「ねえ、君。ちょっと来てよ」と声をかけられる。これは自分であらかじめ仕込んでおくことができない。でも学校というのは、まさにこのような無数の「呼びかけ」が行き交っている場です。

キャンパスをぼんやりと歩いていると、誰かに「ちょっと来て」と声がかけられる。そして、その呼びかけはたいていの場合「ちょっと手を貸して」という「救援の要請」なんです。

(中略)

そして、人間は「ちょっと手を貸して」というタイプの要請を断ることができない。
~~~

「呼びかけ」。これは大きなキーワードを手に入れたような気がします。
オンライン化した学校によって失われる最大のもの、それが「呼びかけ」なのかもしれません。

そして、その「呼びかけ」には応えざるを得ない、とタツル先生は説きます。

~~~
「ちょっと、そこ持ってて」とか「ちょっと、そこ抑えてて」とかいきなり言われて、図らずも手を貸してしまったところからそこで行われている不思議なゲームに巻き込まれる。

でも、これは人類学的心理なんです。人間は「救援の要請」を断ることができない。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取ったものである」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまったものが「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。

「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。昔からそういうことになっているんです。

だから、学びの場に立った時に、子どもたちに必要なのは、キャリアパスポートだとかポートフォリオだとかいう野暮ったいものではなくて、自分の支援を求める声に耳を傾けることなんです。オン・デマンドの教育では「呼びかけに応答する」というアクシデントが起こらない。
~~~

学園マンガってたしかにそうなっているかもしれませんね。
そして、ラストに引用するのは「天職」の話です。

~~~
「天職」のことを英語ではvocationとかcallingと言います。どちらも「呼びかけ」という意味です。自分を呼ぶ声を聞いて、それに耳を傾ける。それによって人間は自分の召命を知り、天職に出会い、おのれの適性・資質を見出す。そういうものなんです。自分にはどういう才能があり、どういう道に進むべきかは、自分で決定することじゃない。「呼びかけ」を聴き取るんです。

「呼びかけ」というのは「意味がよくわからないもの」です。ただ、呼んでいるだけですから。先ほどキャンパスで「図らずも」巻き込まれる経験のきっかけとなるのは「ちょっと手を貸して」だということを申し上げましたけれど、これが「呼びかけ」の基本文型です。「ちょっとこっちへ来て、ちょっと手を貸して」なんです。いったい自分に何をさせたいのきあ、わからない。どうして自分に声をかけたのかも、わからない。わからないけれども、自分が呼びかけられたということは、わかる。

メッセージのコンテンツは理解できないけれども、宛て先が自分だということだけはわかる。メッセージというのは起源的にそういうものなんだと思います。意味はわからないけれど自分宛てであることはわかる。

赤ちゃんはまず自分が「呼びかけ」と「懇請」と「祝福」の宛て先であることを理解する。人生はそこから始まるわけです。すべては「呼びかけ」を聴き取ることから始まる。「呼びかけ」を受信することで初めて「呼びかけの宛て先」として「私」という概念がかたちづくられる。まず私がいて、他者がいて、その間にコミュニケーションが成立するという順序ではないんです。呼びかけがあり、その宛て先が「ここにいる」という確信とともに「私」という概念が受肉する。

アブラハムに主の声が臨んできたとき、主はアブラハムに「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と告げます。いまいる所から外に出よ、と。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家」というのは、あなたがいまいるシステムということです。あなたがいまそこに包摂されている記号のシステム、価値体系の外側に出なさい。そこにとどまっている限り、このメッセージは理解できない。
~~~

そうか、そのメッセージを聴くために「越境」するのか。そして、メッセージを受け取る、つまりメッセージの宛て先になることによって、わたしはわたしになるのか。

「手紙」としての本棚っていうのは、そういうことなのかもしれないですね。

「呼びかけ」と「越境」と「天職」と「わたし=アイデンティティ」と、これらすべてがつながってきます。

「緒(いとぐち)」は、そんな「呼びかけ」が本棚と本を通して伝わってくる、そんな仕組みになっていくのだと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 15:15Comments(0)学び日記

2022年02月06日

「問いと答え」というスキームを疑う


「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)

読むべき本が目の前にくる喜び。
そんな感じの1冊になりました。
12月からずっと感じていた
SDGs的な課題解決型プロジェクトへの違和感。

その正体を見つけた、という感じの一節。
P166からの「先手を取る」能力
これだよ、これ、っていう。

長文になってしまいますが、僕のメモのために記録します。

~~~ここから引用

「目の前に問題があり、それに正解することが急務である」という枠組みでものを考えてはいけないという話です。

武道の場合は相手が何かを仕掛けてくるという初期設定をします。つかむ、突く、切る、抑える、というふうに。こちらの自由度を下げ、可動域を限定してくる。それに対して技を返したり、投げたり、極めたり、ということをするわけです。でも、この時に、相手が手首を握ってくるとか、正面から切り込んでくるとか、肩をつかんでくるとかいう設定を「問題」ととらえて、さて、それに対してどう処するのが「正解」であろうかと考えると武道的にはもう終わりです。

「問い」に対して「正解」する責務が自分にはある。その解答が正しかったか間違っていたかは、相手に「技が効いた/効かなかった」という仕方で事後的に判定される。こういう発想をすることが「後手に回る」ということです。

「後手に回る」ということは「必ず負ける」ということです。相手がまず場を設定し、それに対する自分のリアクションに「点数をつける」。うまく応じたらよい点が付き、へたに応じたら悪い点がつく。

相手が作問し、出題し、採点する。先方が「査定する側」で、こちらが「査定される側」である。この非対称性のことを「後手」というのです。

でも、現代人である僕たちはそういうスキームしか知らないんです。子どもの時からずっとそういう枠組みの中で能力を査定されてきたから。学校がそうですね。

先生が作った問題に解答すると点数がつけられて戻される。会社に勤めるようになってもそうですね。上司に仕事を命じられて、それをこなすと勤務考課される。そういう枠組みの中で「いい点数・いい考課」をもらうことが人生の目的になる。でも、これは制度的に「後手に回る」人間を創り出しているということです。

学校や会社のような閉じられた系の内部で、定められたルールの中でなら、「ゲーム」としてそのスキームを利用しても構わまないんです。

たぶん先生方も、学校教育の現場にいるわけですから、「問いと答え」というスキームがもう身に浸みついていると思います。あらゆることをそのスキームで考える習慣になじんでいる。学びも、成長も、すべて「難問と正解」の形式でなされるとたぶん信じ込んでいる。

でも、それは違います。そのような枠組みで開発されたり、涵養されたりする能力や資質もたしかにあります。でも、それは子どもたちの中に潜在している能力のほんの一部に過ぎません。われわれが人間として生きてゆく時に実際に必要とされる能力のうちのごく一部です。残りのほとんどは「難問と正解」という刑式では対処できない。複雑すぎるからです。だから、そのような難問に答える必要がない立ち位置にあらかじめ移動しておく。それが「先手を取る」ということです。

~~~

これ、すごいことだよなあ。「身体性」って言ってたのとかもここに含まれてるなあと。
「問いと答え」っていうスキームそのものが複雑化する社会には対処できないのかもしれない、と。

そして、この「先手を取る」能力のラストにズバリ、書いてあります。

~~~
いまのようにシステムそのものが劣化していると、「どうやってこのシステムを改善したらよいのか?」というふうにふつうは問いを立てます。けれども、そういう問い方をすることが「後手に回っている」わけです。それでは「システム内部的」な問いに「システム内部的」な答えをあてがうことしかできない。

システムそのものが劣化している時に、立つべきポジションはシステムの外部です。外に出るしかない。システム外でも考えなければいけないこと、しなければいけないことはたくさんあります。でも、それは誰かが作問して突きつけてきた「難問」に答えるという形をとらない。

システムの外に立つというのは、自分で選んだ生き方を具体的にどうやって成り立たせるかということです。システムの外部で、どうやって愉快に暮らしていけるか、それは個別的で、具体的なことであって、どこにも「正解」なんかありません。
~~~

うわーーー。これだよ、これ。
SDGs的な課題解決型プロジェクトへの違和感。

1月12日に書いた
「課題を発見し、ニーズに応え、期待値を超える」の外側
http://hero.niiblo.jp/e492263.html

まさにこれだよね。
それって、「先手を取る」ために、「後手に回らない」ために必要なんだって。

「問いと答え」というスキームそのものを疑う。
それはシステムの内部で考えてしまっていることになるから。

だからこそ「越境」が必要だし、「アマチュアリズム」が大切だし、直感で動き、やってみるしかないのだなあと。

「問いと答え」というシステムそのものが劣化している中、素人だからこそ、できることがきっとある。

だからこそ高校生や大学生の出番なんだよね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)学び日記