2016年09月19日
世間と社会の「あいだ」
「コミュニケイションのレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)
「孤独と不安のレッスン」の
次に読んだらいいんじゃないか、という本。
「空気と世間」(著者同 講談社現代新書)
のエッセンスも入っていて、非常に有意義な本だと思う。
まだ前半だけど。
~~~ひとまずメモ
コミュニケイションも、世間を生きるための効果的なコミュニケイションと
社会を生きるための効果的なコミュニケイションの2種類に分かれると思っているのです。
世間とは、あなたと利害・人間関係があるか、
将来、利害・人間関係が生まれる可能性が高い人達のことです。
社会とは、今現在、あなたと何の関係もなく、
将来も関係が生まれる可能性が低い人達のことです。
村落共同体では、村全体の価値が共通でそれが共有されていた。
それは、少ない水で、どうやって効果的に米を作るか。
村という世間は、村人全員の幸福を追求したのです。
それは、優しさとか親切心とかではなく、村全体が生き延びるために、
つまり一定の収穫量と持続的な働き手を確保するために必要なことだったのです。
明治政府は強引に、世間ではなく社会に生きるように日本人に求めたのです。
世間の代表だった村の考え方は、
そのままそっくり日本の企業が受け継ぎました。終身雇用制度と年功序列制度です。
日本人は日本的企業という強力な世間を作り上げ、そこで生活したのです。
世間は私たちの本当の気持ち、社会は公式見解、または理想論という区別なのです。
けれど、やっかいなことに、
世間は、完全に壊れることも、完璧に残ることもなく。中途半端に残っているのです。
世間の言葉とは、論理ではなく、感情の言葉です。
世間で話す時、その目的は、感情交換が一番、情報交換が二番です。
~~~ここまでメモ
うん。
これ大事。
コミュニケイションを考えるうえで、
このエッセンスは重要だなあと思う。
これを見て思ったのは、
ツイッターっていうのは、
世間と社会のあいだのメディアだなあと
ツイッターには、世間の言葉と社会の言葉が
入り混じっていて、それを受け取るほうも
世間の人だったり社会の人だったりする。
きっと、この感覚。
これがコミュニケイションの出発点だし、
コミュニティっていうのの奥にあるものなのかもな。
「あいだ」、「境界」っていうのことかも。
ゲストハウスとか本屋も、そういう空間が作りやすいのかも知れまえん。
Posted by ニシダタクジ at 05:52│Comments(0)
│本
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