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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月03日

「おでん」に溶けるジャガイモになる

みなさんが振り返っているのに影響されて、
わたしも振り返ります。

2019年1月~3月(さきは長い・・・)

この3か月のテーマは「本屋」と「就活」でした。
まだ自分が5月から高校魅力化プロジェクトに携わろうとは思っていなかったですね。

2019年1月は、
「かえるライブラリー」のクラウドファンディングに挑戦。

年明けは「本を贈る」と「続・ゆっくりいそげ」を併せて読んでいました。
want,doからbeで自分のありたい姿を現すこと。
何をやるか?ではなく、誰とやるか?どうありたいか?を問いかけました。

★影山さんの場の定義
空間×関係性×記憶っていうのも記憶に残る。

★影山さんの場のチカラは
1 目的がなくても参加できる
2 多様な人が来る
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一
5 楽しく遊びの要素がある

影山さんは、「それってカフェじゃないか」って思うのだけど、
僕はやっぱり「それって本屋じゃないか」って思ったのです。

★向き合わないデザイン
また、「本の処方箋」から考えた「向き合わないデザイン」について。
1つ目 その場限りであること
2つ目 その悩みは本では解決しない
3つ目 向き合わずに本棚を見ながら話すこと
これによって、相談者が「心を開く」ことができるのでは?と考えた

★本屋は「委ねる」
・場に委ね
・感性に委ね
・購入者の未来に委ねる

★かえるライブラリーのシステムは公務員も参画できる地域ビジネスのプラットフォームであること。
・公開積読
・本で出会う就活⇒耳をすませばプロジェクト⇒「手紙を届ける」

★本屋のオヤジのおせっかい
無力というのは「何もしない」ということではない

★本屋は「つくる」と「届ける」が同時に起こる
文化=質の高い時間を盗まれたい。質のいい時間どろぼう

★場をつくることは未来をわからなくする方法

にいがたイナカレッジの連載では
「挑戦するな、実験しよう」が生まれた。
https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

・やりたいことがわからない
・自分に自信がない
・リーダーシップ・主体性がない
・「就職」したいけど「就活」したくない
・「働きたい」より「暮らしたい」

クラウドファンディングは場になりうるのか?という実験は
1月28日の野島萌子の投稿がその1つの答えだった。
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72112#main

そして2月。
クルミドコーヒー影山さんに誘ってもらい、胡桃堂喫茶店での対談。

★主客同一⇒主客未分
新しいシステムをつくるには問いが必要。
「生産性」が問われると人は手段化する。
「問い」の種をまくような本屋
「空間的」にも「時間的」にもフラットであること。

まちから:水戸部さん
「欠落」と「有意味性」
伴走型支援⇒伴奏型支援

★地域の個性の構成員になること。
「営み」の中にあるという身体性(食や農)を通じて自分自身の豊かさに気づくこと。

「課題解決」⇒価値アプローチ
「源泉」をさがす⇒顧客(自分)アプローチ(面白がること)

doの肩書き×beの肩書き
「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく。

そして3月。
益田ひとづくりフォーラムへ。
ライフキャリア教育、カタリ場、大人と子どもの出会い直し
新・職場体験

2018年11月に行った「しまね教育の日ファーラム」で感銘を受けて、
2018年度3度目の島根へ(6月には海士町と雲南に行ってますね)

空っぽなままで言葉は出てこない
心動かしたことを貯めていく
★思考停止こそが絶望
アイデンティティ問題⇒未分化な地方でクリアできないか?

学び合えば希望は生まれる
⇒究極のエンターテイメント(予測不可能性)としての学び
⇒贈与を受けた者であることを知るために学ぶ

★「第3の大人」:評価しない大人、共に学ぶ大人

心>頭
「感じる」から始めるキャリア教育
共に「価値」を設定していく。
中学生も大人も「感じること」から始める。

そして、その帰り道。
愛知県のとある高校で講師を行う。
あれは大きかった。
http://hero.niiblo.jp/e488989.html

自分は多感な高校生に通用するのか?
っていうプレッシャーがすごかった。
お題はコミュニケーションについて
コミュニケーション力(スキル)⇒コミュニケーションデザインへ

さらに、
3月15日には再びクルミドコーヒーで影山さんと「就活」についてのトーク
良いものと悪いものはコナトゥスとの組み合わせによって決まる
リザルトパラダイムとプロセスパラダイムを併せること

3月のラストは
落合陽一さんの「日本再興戦略」が締めくくった。
http://hero.niiblo.jp/e489076.html

~~~少しだけ改めて抜粋

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。

~~~ここまで抜粋

そしてもうひとつ。日本再興戦略の冒頭から抜粋

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」
すごい発明だなあと。
カール・マルクス「資本論」の前に読み直しておいてよかった。

じゃあ、どうすればいいのか?
ヒントは「おでん」だ。

場という「おでん」の具として生きる(19.3.18)
http://hero.niiblo.jp/e489028.html

~~~ここからブログより引用

「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。

よい「場」っていうのは、おでんのようなもので。

それぞれが、おでんに向かって
ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、
ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、
全体としてひとつのおでんができている。
ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。

よい場っていうのは「おでん」のような場なのではないか。

個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。

2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけた。「プロフェッショナルになれ」という呪いを。一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と言った。それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪縛につながった。

でも。そもそも人はONEなのではないのではないか。
おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。

場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、
場とやり取りしながら、出番が来るまで、
役割を全うすることなのではないか。

そんな「おでんの歌」を、必要としているのかも。

~~~ここまでブログより引用

1月のかえるライブラリーと本屋の価値の話から、
「続・ゆっくりいそげ」から始まった2月、3月の影山さんとの対話。
そして益田ひとづくりフォーラムからの高校生への講演。
さらに、近代的自我に対する疑問。

2019年1月~3月。
この時点ですでに、僕が取り組みたい課題と、
その手法(おでんのような「場」をつくる)

振り返っていて一番驚いたのは、4月1日のブログに、こう書いてあること。

~~~

中学・高校の時から学校以外の場所に「おでん」を持つこと。「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。何か小さなプロジェクトが生まれる、そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、そんな「場」を持つこと。

その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、個人が特定されないような、中途半端な「匿名性」を持っていること。

それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」(参加高校生のコメント)とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」というような、

調べればだれがやっているのか分かるけど、発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、っていうのが、日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。「おでん」のように相互に関係し合う「場」で小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。

「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。その「中の人」として、何かを始めてみること。

これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。

~~~

いや、すでに、今とほぼ同じような結論に到達しているんだなあと。
おそるべし、現代美術家、ニシダタクジ。

ふりかえり、やっぱ大事だ、と。

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Posted by ニシダタクジ at 15:08│Comments(0)日記学び足跡
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