2021年12月15日
不完全な人間としての自分を場に差し出すこと
「ペルソナ・マーケティング」への違和感
ようやく言語化された。いい問いをもらった。
問いフレンドに感謝。
ペルソナ・マーケティングではなくピンホール・マーケティングをやっていく、という感覚がなぜなのか?どう違うのか?
ペルソナって結局統計学でしかなくて、その中の何%が反応するか、っていう話なんだよね。
目指さないといけない地域の小さなお店がとるマーケティング手法としては使えないのではないかと。
それって、相関はあるけど原因と結果ではない、みたいな話だし、そもそも属性ってカタチだから、スピノザ的に言えば、人間の本質じゃないんだよね。もっとコナトゥス(ベクトル)にフォーカスしていくことが必要なのではないかと。
だから、手法としては、ピンホールマーケティングになるし、未来日記的なアプローチになるのではないかと。その人のコナトゥスを想像して、それを実現できる機会(可能性)を差し出すんだよね。それは「機会」に過ぎなくて、その「機会」は意図してつくることもできなくもないけど、不完全なものになっていく。
「不完全で差し出す」これが大切なんだと思った。それは場のチカラを信じることにもなるけど。
それは、マッチングアプリで結婚相手を探すのではなく、ツイッターで気の合いそうな人をフォローして追いかけてみながら会いに行く、みたいなアプローチなのかもしれない。
「プロフェッショナルであること」が良しとされ、「完全版を出せ」と求められる。その時に人は人間ではなく「機能」になってしまうのではないか。
不完全で差し出された「機会」によって、参加性と心理的安全性が増し、「場によって創られる」みたいなことが起こる。いや、そもそも、人の楽しさは、「予測不可能性」にあるのだから、不完全な機会を差し出された場の一員になる、ということそのものが楽しいのではないか。
新型コロナウイルスは、人を「素人」にした。「1か月後の未来さえわからない。」という体感。みんなが素人としてフラットになった。
そして「機能」として仕事をするのではなく「人間」として生きることを欲するようになった。
人間であるということ。不完全であるということ。場の一員にすぎないということ。
でも、参加できて、心理的な安全性があって、役割がはっきりしないということ。
ゴールなき時代に、不完全な人間としての自分を場に「差し出す」こと。
問いを得ること。
問いの旅に出ること。
問い仲間に出会うこと。
今の問いが終わること。
次の問いが始まること。
そのプロセスにいるあなたと、ともにありたい。
ともに場に差し出したい。
それが僕が本屋というメディアに託した「手紙」。
手紙を一通一通届けるような、そんなビジネスをしたいんだ。
何割の客がリピーターになるか、そんなビジネスはやりたくないんだ。
たぶん、そんな感じ。
そんな「場」をつくっていきたいね。
不完全な人間として、ね。
ようやく言語化された。いい問いをもらった。
問いフレンドに感謝。
ペルソナ・マーケティングではなくピンホール・マーケティングをやっていく、という感覚がなぜなのか?どう違うのか?
ペルソナって結局統計学でしかなくて、その中の何%が反応するか、っていう話なんだよね。
目指さないといけない地域の小さなお店がとるマーケティング手法としては使えないのではないかと。
それって、相関はあるけど原因と結果ではない、みたいな話だし、そもそも属性ってカタチだから、スピノザ的に言えば、人間の本質じゃないんだよね。もっとコナトゥス(ベクトル)にフォーカスしていくことが必要なのではないかと。
だから、手法としては、ピンホールマーケティングになるし、未来日記的なアプローチになるのではないかと。その人のコナトゥスを想像して、それを実現できる機会(可能性)を差し出すんだよね。それは「機会」に過ぎなくて、その「機会」は意図してつくることもできなくもないけど、不完全なものになっていく。
「不完全で差し出す」これが大切なんだと思った。それは場のチカラを信じることにもなるけど。
それは、マッチングアプリで結婚相手を探すのではなく、ツイッターで気の合いそうな人をフォローして追いかけてみながら会いに行く、みたいなアプローチなのかもしれない。
「プロフェッショナルであること」が良しとされ、「完全版を出せ」と求められる。その時に人は人間ではなく「機能」になってしまうのではないか。
不完全で差し出された「機会」によって、参加性と心理的安全性が増し、「場によって創られる」みたいなことが起こる。いや、そもそも、人の楽しさは、「予測不可能性」にあるのだから、不完全な機会を差し出された場の一員になる、ということそのものが楽しいのではないか。
新型コロナウイルスは、人を「素人」にした。「1か月後の未来さえわからない。」という体感。みんなが素人としてフラットになった。
そして「機能」として仕事をするのではなく「人間」として生きることを欲するようになった。
人間であるということ。不完全であるということ。場の一員にすぎないということ。
でも、参加できて、心理的な安全性があって、役割がはっきりしないということ。
ゴールなき時代に、不完全な人間としての自分を場に「差し出す」こと。
問いを得ること。
問いの旅に出ること。
問い仲間に出会うこと。
今の問いが終わること。
次の問いが始まること。
そのプロセスにいるあなたと、ともにありたい。
ともに場に差し出したい。
それが僕が本屋というメディアに託した「手紙」。
手紙を一通一通届けるような、そんなビジネスをしたいんだ。
何割の客がリピーターになるか、そんなビジネスはやりたくないんだ。
たぶん、そんな感じ。
そんな「場」をつくっていきたいね。
不完全な人間として、ね。
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