2023年12月03日
己の唯一無二性に気づくため「座標軸」の外に出る
「ケアしケアされ、生きていく」(竹端寛 ちくまプリマ―新書)
まずはP22 子ども基本法第三条第三項より
「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」
なるほど。
寮のルールとか勝手に決めちゃいけないんですね。子ども基本法違反なんです。
授業のカリキュラムもどうなんでしょうか。
次にwith-nessについて。
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about-nessな考え方:「〇〇について考える」やり方で、問題を対象化して「客観的に」分析する思考。常に問題を細分化・他人事化しやすいし、他者の問題なら「それは〇〇が悪い」と上から目線で指導や指摘をしやすいです。
with-nessな考え方:「〇〇についてあなたと私が共に考え合う」という姿勢で、物事を切り離して分割するのではなく、どのように関連づけられそうか、いかに相互作用が起こるのか、を大切にします。まずは相手が悩んでいること、しんどいこと、苦しいことを遮らずに最後までじっくり聞いてみる。相手の話を否定せずにまるごと受け止めてみる。その後、その話を聞いた自分は心の中にどんなことが浮かぶかを、私を主語にして、話し始めてみる。それがwith-nessなアプローチです。
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ケアの種類について
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1 関心を向けること Caring about
2 配慮すること Caring for
3 ケアを提供すること Caring giving
4 ケアを受けとること Care-receiving
5 共に思いやること Caring with:複数性、コミュニケーション、信頼と尊敬、連帯感
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そして手厳しい「昭和98年的世界」の描写
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「迷惑をかけるな憲法」と同じような「呪いの言葉」としての「頑張れば報われる」は、「報われるためには頑張らなければいけない」:根性論「頑張らないなら報われなくても仕方ない」:自己責任論へと転化してしまう。
学校は標準的で規格化された学力を埋め込むための「学力工場」になっているのではないか。
パウロ・フレイレは「教師が一方的に話すと、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚えるというだけになる。生徒をただの『容れ物』にしてしまい、教師は『容れ物を一杯にする』ということが仕事になる。『容れ物』にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に『容れられている』だけがよい生徒になってしまう。」と言い、それを「銀行型教育」と名付けた。
知識を預金するかのようにため込む時、「なぜ?」「どうして?」という問いを抱えること自体が無駄になります。黙って暗記した方が、たしかに「効率的」です。でもそれは自らの中で湧きあがる「問い」を消して「正解」ばかり追い求める行為になります。そして、そのような「問い」を消すことは、私自身にとっては「学びの自発性」の炎を消すことでもあったのです。
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昭和的な「正解≒効率化」がある時代から、標準化・規格化された「正しい答え」を失った令和の時代。世の中が変わってしまったのに社会のシステムと人々の思考がアップデートされていないことで生きづらさが増しているのではないか、と筆者は言います。
最後のケアの項目から、「共に思い合う関係性」(P 164)
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中核的感情欲求(伊藤絵美)
1 愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい
2 有能な人間になりたい、いろいろなことがうまくできるようになりたい
3 自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい
4 自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい
5 自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい
この要素が満たされない状況
1 人との関わりが拒絶されること
2 「できない自分」にしかなれないこと
3 他者を優先し、自分を抑えること
4 物事を悲観し、自己や他人を追い詰めること
5 自分勝手になりすぎること
ケア対象者の中核的欲求を満たすためには、どうしたらいいのか?
P168 岸政彦さんが提唱する「他者の合理性の理解」のための「生活史」の把握
「生活史とは、出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積である。そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していくのである。私たちは自分の経験、出来事、他者、場所などに、常にさまざまな意味付けをおこなう。それは希望に満ちたものでもあるだろうし、絶望的なものでもあるかもしれない。わたしたちの人生の中心には意味があり、その意味をめぐって私たちの人生は展開する。意味によって人は生かされていて、そして生きることで意味が生み出されていく。」
あなたが誰かをケアする際には、ケアする相手の「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」を理解する必要があります。その人は、これまでの人生にどのような「意味づけ」を行ってきたのか。これから、いかなる意味づけを行っていこうとするのか。本人の過去の意味づけと、未来への展望をうかがいながら、では自分はそこにどのように能動的に関わっていけるのか、を考えていきます。ここで能動的と述べたのは、絶望的な意味づけが希望的な意味づけに変わるように積極的に関与しケアすることができるか、という視点です。
伊藤絵美さんによると「他者を優先し、自分を抑えること」の中には、「『ほめられたい』『評価されたい』スキーマ」が、「物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること」の中には、「完璧主義的『べき』スキーマ」が存在する、といいます。(スキーマ:無自覚・無意識の認識のパターンやクセのようなもの)
そんな他者の生活史の理解を通じて、他者がいかなる中核的感情欲求をどのように満たされたか、満たされていないか、を把握していくプロセスは、「他者の他者性」に気づくことであり、それを通じて「己の唯一無二性」を捉え直すことでもあります。
「他者の他者性」とは、「他者には、自分には理解し得ない他者性がある」ということです。
ものごとを決めるときにも、その前提で進めていくときに大切なことが、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるということです。
学級会であれ会社の会議であれ、話が揉めるのは、価値観が対立した際です。その前に、お互いの価値前提を聞き合う時間があれば、話は違ってきます。なぜあの人は私と反対の意見を持っているのか、そこには必ず理由や背景があります。
他者の他者性を理解するプロセスの中で、彼女がそうせざるを得ない出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積(≒他者の合理性)が理解できてきます。すると、彼女を許せるだけでなく、彼女にイライラした自分の内的合理性も理解でき、それをも許せるようになってくるのです。
「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の1つ、「自分の感情や思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の自由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。
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いま・ここ、の不確実性に身をさらすこと。これはめちゃくちゃ怖いことです。何が正解かわからない状況にあるなかで、自分が言ったことを理解してもらえるか、受け入れてもらえるかどうかわからない。それは自分が傷つく恐れもあり、不安感も高まる状況です。
でも、それが己の影だとしたら、どうでしょう。影を無視して、他者との出会いによる葛藤を回避して、スムーズな日常に逃げ込むことによって、己の唯一無二性に出会うチャンスをも見失ってしまいます。それは中核的感情欲求を満たすチャンスを見失うことであり、「世の中なんてどうせそんなもんだ」と諦めて、自己責任的社会を消極的に受け入れ、自分自身が縮こまっていきます。それこそが「魂の植民地化」なのです。
魂の「脱」植民地化とは、この葛藤の最大化場面において、他者を信じて、他者や己との対話を豊かにしていくプロセスなのではないかと思います。落としどころや見通しの利かない場面で、とにかく他者の他者性を理解しようと、全身で聞き耳を立てる。そういうふうに、相手に自分をさらけ出すことで、相手との間に信頼関係が生まれ、そっから相手も自分の声を聞いてくれる展開が生まれる。そういう不確実さをそのものとして大切にする姿勢の中から、「違いを知る対話」が生まれてきます。そしてあなたがそう心がけさえすれば、いま・ここ、でその対話を始めることもできるのです。
それこそがケアに満ちあふれた対話なのです。
他者の他者性に出会った上で、どのようにいま・ここで己の唯一無二性と関係性のダンスを踊れるか、が問われています。正直、ダンスを始めてみないと、そのダンスはどこに行き着くか、わかりません。
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いいですね。このラスト。グッときます。
ケアする、ケアされるということ。
それは共に思いやること。
相手の他者性に気づくこと。
それを通じて己の唯一無二性に気づくこと。
「アイデンティティ」という問題の解決策のひとつがここにある、と思いました。
他者の生活史の物語を知ること。
「出来事の選択と理由」の連鎖と蓄積を受け止めること。
それはある意味、自分が築いてきた「座標軸」の外に出ることを意味するのかもしれない。
己が唯一無二であること。
それは他者で他者であることの自覚から始まっていくのかもしれません。
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