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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年03月27日

「相互評価」ゲームからの越境

『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)

1年前に買っていたのですが、ようやく読み始め。
でも、タイムリーではあります。
僕たちは「評価」というものを問い直す必要があるのだと思う。

以下、引用。
まずはSNSによる「動員の革命」について

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コロナ・ショックは人間をインターネットの中に、より正確にはSNSの作り出す人間同士の相互評価のゲームの中に閉じ込めたのだ。いつの間にか人々は問題を解決するためではなく不安を解消するために、考えるためではなく考えないために情報を検索し、受信し、そして発信するようになっていた。

マスメディアのもたらすものが他人の物語への感情移入であるのに対し、SNSのそれは自分の物語の発信である。その発信がほんの少しでも誰かを、社会を動かすと信じられるとき、人間は自己の存在が承認されたと感じる。ここにら「動員の革命」の特徴があった。「動員の革命」とは市民運動だけでなく、CDからライブやフェスへの収益構造の変化、「観る」アニメから「推す」アイドルへのサブカルチャーの中心の移動、「インスタ映え」による小売店や観光客の集客。サイバースペースの日常から、実空間の非日常に「動員」していた時代だった。

「動員の革命」とは、言い換えれば誰もが当事者として「自分の物語」を発信する快楽を得られる環境に依存した動員だ。しかし多くの人々が、その快楽の中毒となり、発信すること自体が目的化することでものを考える力を失ってしまっているのだ。彼ら、彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が、他のプレイヤーの共感を集めたとき、自己の存在が承認されたと感じる。

このとき人間は、それがどんな小さなものであったとしても、確実に世界に素手で触れたと信じられる。この手触りは自分が存在していることを強く肯定してくれる。その結果として、今日の世界では世界中の人々が他のプレイヤーからの共感を競うこのゲームのプレイヤーになっている。プレイヤーの目的は問題の解決や再設定ではなく、問題についての応答による評価の獲得だ。他のユーザーからの評価を獲得するためには、その承認への欲求に訴えることがもっとも効果的であることを、いまやほとんどのプレイヤーが経験的に知っている。
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「動員の革命」とは、SNSによって可能となった「自分の物語の発信」とそれに伴う「存在の承認」への欲求によって駆動されているのだと宇野さんは言う。

そして、いつのまにか、人はその「共感」の数を競うゲームのプレイヤーとして存在しているのだとも言う。まさに「評価経済」と呼ばれるものだ。

しかし、果たしてそれで、人は幸せになったのだろうか?
世界は進歩したのだろうか?
課題は解決したのだろうか?
「承認の欲求」という課題を含めて。

宇野さんは問いかける

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しかし、僕は問いたい。この十年のあいだSNSによって動員されたそこは本当に外部だったのか。偶然目に映り、耳に入るものに溢れた出会いの場だったのだろうか。
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それはむしろ、現実社会そのものがサーバー空間によって乗っ取られている、とも言えるだろう。しかしそれは「世界に素手で触れている」という感覚を喪失しているからこそ起こるのだ、と宇野さんは説明する。

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グローバル資本主義というゲームをプレイし、そしてゲームそのものを内側から改変していくことが可能なメタプレイヤーキャラクターたちと、もはやこのゲームを主体的にプレイすることすら許されないノンプレイヤーキャラクターたちに世界は二分されているのだ。両者を隔てているのは、世界に素手で触れることができると信じられているかどうか、だ。

ヒッピーの脱社会性と反権威性にヤッピーたちの資本主義への過剰反応が合流したとき、シリコンバレーは生まれた。このとき、資本主義の外部に捏造するはずだったサイバースペースは、資本主義社会のあたらしいフロンティアとしてその内部に組み込まれた。

およそ百年前に、ロレンスが選択したゲームの目的(金銭や地位、そしてイデオロギーの追求など)を放棄し、ゲームのスコア自体を目的化するというアプローチこそが、帝国主義の無制限に自己拡大を試みるメカニズムの一部であるというアーレントの指摘は、情報社会を生きる僕たちに大きな示唆を与える

インターネットが、SNSのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化したとき、人々はアーレントの述べる〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーに限りなく近い存在になる。

自分の発信が他のプレイヤーから評価されることで発生する承認の快楽の中毒になっていく。そして発信の目的は世界に影響を及ぼすことではなく、承認の獲得に変化していく。気がつけば、問題の解決や問い直しではなく、どのように回答すれば他のプレイヤーから関心を集めることができるかだけを考えて発信するようになる。
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いやー。まさにまさに。
僕たちはSNSによって、現実社会を乗っ取られているのだ。
著者はそれを「アラビアのロレンス問題」として、解説するのが第2章だ。
ここは、なかなか難しかったのだけど、結論だけをメモする。

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僕たちはロレンスよりもずっと簡単に物理的な身体を一時的に消滅させる一方で、社会的な身体のみを肥大させ、着飾ることができる世界に生きている。ロレンスほど徹底してその身体を痛めつけることなく、精神と身体を切り離し、メディアの中の虚像を手に入れることができる。

人びとは極めて無自覚に、単純化され、画一化された身体を用いることによって、その欲望も単純化され、画一化されている。プラットフォームはあらゆるプレイヤーの社会的身体を画一化する。現実の物理的な身体は多様だが、SNS上の社会的身体は一様なものになる。人間一人ひとりの身体は全く異なるが、SNSのアカウントの機能は同一だ。しかもその社会的身体(アカウント)の機能は、相互評価のゲームによる承認の交換のみを行うように設計されている。

その結果として人々は閉じたネットワークの内部に閉じ込められて、終わりのない21世紀の〈グレート・ゲーム〉に埋没している。そして今日となっては、SNSのプラットフォームの支配下にあると言っても過言ではない実空間にまで、その繭は拡大している。
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新型コロナウイルスにより、生身の身体で「外部」に触れられなくなった私たちは、身体を拒絶して絶対的な外部を求めることによって、逆に閉じたネットワークに閉じ込められたのだと著者は説明する。

これこそがこの4年間で、起こったことなのではないか。
そう思った。

コロナショックによる外出制限によって、僕たちは(特に身体的に)「存在が承認される」機会を失った。その、根源的欲求に応えるために、SNSの世界へと時間を使うようになった。そこは、ひとりひとりが「1アカウント」でしかなく、平等な条件のもとの相互評価のゲームをプレイできる場だった。

「越境しよう」
そう高校生に呼びかけるとき、越えるべき「境界」とはいったいなんだろうか?

子どもと大人の境界。
学校内と学校外の境界。
地域内と地域外の境界。
日本と世界の境界。
または身体と精神の境界。

本当に越えなければならないのは「評価」の境界ではないのか。
SNSのプラットフォームが提供している相互評価のゲーム。
学校内外の活動のすべてを大学進学のネタとして「評価」しようとする入試ゲーム。

その外部に出る必要があるのではないか。
そして、「外部」を自ら構築する必要があるのではないか。
身体を伴ったリアルな実感として。

その「越境」のきっかけをつくること、コーディネートすることこそが私たちがここに存在している理由なのではないのか。

その「越境」を欲して、ロレンスのように高校生は地方を目指しているのではないのか。
そこに応えられる地域でありたい、そんな風に思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:28Comments(0)学び