2023年09月08日
組織とチームとアイデンティティ
高校魅力化プロジェクトの内部研修のようなオンラインイベント。
組織からチームになるってどういうことだろうか。
ここで20代の人たちが言う「組織」は、
いわゆる指揮命令(責任)系統のあるピラミッド型組織のこと。
役場や学校などがそれにあたる。
その組織は組織でいいのだけど、
高校魅力化プロジェクトについては、チームでありたい、
というのが彼らの共通したところだった。
では「チーム」とは、
・役割が違うだけで上下関係がないので対話する
・構想と実行の分離が起こらない(構想に参加・参画している)
・チームだったら人が入れ替わることがよい循環になるけど、組織だったら脆さの原因になる。
・持続性とは、組織の同じ体制(人・役割の状態)を保つことではなく、チームが1年1年更新されていく仕組みをつくること。
これってアイデンティティの問題でもあるな、と。
上下関係のあるピラミッド組織においては、上の方にいる人の資質・能力が圧倒的に重要である。決定権がその人にあるからだ。しかしながら、コロナ禍の3年間を経て、答えそのものを喪失した時代を僕たちは生きている。
組織は今まで通りもちろんあるのだけど、そこに「地域おこし協力隊」という制度を使って、組織を横断したチームを作った。そのチームで課題を発見し、仮説を立て、実行し、ふりかえる、というサイクルを回していくこと。
それが課題解決に向けての手法であったはずだ。
その方法論として取り組んできたこと
1 意志決定の主体を会議体にすること。
2 構想と実行を分離させない(構想に参加・参画する)こと
この2つであったと思う。
それは、組織をチームにしていくための方法論であったのだけど、
同時に、アイデンティティ形成への方法論なのかもしれないと思った。
千葉哲也さんは「勉強の哲学」の中で、「学ぶ」とは「変わる」ことだど説いた。
「学び」に伴って人は変わってしまう。
目標に向かって、問題を早く正確に解くスキルだけが向上していくのは、学びとは言えない、と。
そう考えると、「探究って遊びのでしょ」みたいな言い方に、なるほどそうかも、って思える。
「学び」と「遊び」は対立構造ではなくてむしろ「遊び」の中に包含されているのではないか。
「遊び」の中におけるもっともエキサイティングなもの、それが「学び」ではないのか。
だって、自分が変容しちゃうんだよ。今まで生きてきた世界と違う世界を生きていくことになるんだよ。
そんなエキサイティングな遊びは雪山登山とか、そういう感じになっちゃいますよ。
この「自分が変わっちゃう」っていうのに対するマインドセットが、オジサンと若者を分けるのかもしれない。
キャロル・ドゥエック教授のいう「グロースマインドセット」と「フィクスドマインドセット」の違いだ。
http://hero.niiblo.jp/e256118.html
(参考:Everything is situated.13.4.19)
「チームで働きたい」と切実に願う若者のアイデンティティ形成の手法と(組織・会社から与えられた)自分のミッションを遂行していくことで、(肩書としての)自分を形成するという手法の違いがあるのではないかと思った。
後者は、ビラミッドのような積み上げ式のアイデンティティ形成方法を取り、一方で前者は、複数のチームに属し、そのチームで構想に参加・参画しかつ実践することを繰り返し、役割を果たしていくことで、複数の「自分(らしさ)」を獲得していく。
その1つ1つの点をネットワーク(コネクティングドット)したものが若者の「自分(らしさ)」の形成方法なのかもしれない。
「自分」とは複数個の点(自分の役割)のネットワークであるから、そのひとつひとつの点が変わってしまうこと、あるいは消滅してしまうことを畏れることはない。また違う点を打てばいいし、ネットワークを紡ぎ直せばいい。
たぶんそんな感覚なのかもしれない。
そんな彼らとチームを組み、成果を上げていくには、ピラミッドを崩していく(アンラーニングする)マインドセットと、「構想と実行の分離」をさせない「場」にフォーカスしたコミュニケーションが必要なのだろうなとあらためて思った。
組織からチームになるってどういうことだろうか。
ここで20代の人たちが言う「組織」は、
いわゆる指揮命令(責任)系統のあるピラミッド型組織のこと。
役場や学校などがそれにあたる。
その組織は組織でいいのだけど、
高校魅力化プロジェクトについては、チームでありたい、
というのが彼らの共通したところだった。
では「チーム」とは、
・役割が違うだけで上下関係がないので対話する
・構想と実行の分離が起こらない(構想に参加・参画している)
・チームだったら人が入れ替わることがよい循環になるけど、組織だったら脆さの原因になる。
・持続性とは、組織の同じ体制(人・役割の状態)を保つことではなく、チームが1年1年更新されていく仕組みをつくること。
これってアイデンティティの問題でもあるな、と。
上下関係のあるピラミッド組織においては、上の方にいる人の資質・能力が圧倒的に重要である。決定権がその人にあるからだ。しかしながら、コロナ禍の3年間を経て、答えそのものを喪失した時代を僕たちは生きている。
組織は今まで通りもちろんあるのだけど、そこに「地域おこし協力隊」という制度を使って、組織を横断したチームを作った。そのチームで課題を発見し、仮説を立て、実行し、ふりかえる、というサイクルを回していくこと。
それが課題解決に向けての手法であったはずだ。
その方法論として取り組んできたこと
1 意志決定の主体を会議体にすること。
2 構想と実行を分離させない(構想に参加・参画する)こと
この2つであったと思う。
それは、組織をチームにしていくための方法論であったのだけど、
同時に、アイデンティティ形成への方法論なのかもしれないと思った。
千葉哲也さんは「勉強の哲学」の中で、「学ぶ」とは「変わる」ことだど説いた。
「学び」に伴って人は変わってしまう。
目標に向かって、問題を早く正確に解くスキルだけが向上していくのは、学びとは言えない、と。
そう考えると、「探究って遊びのでしょ」みたいな言い方に、なるほどそうかも、って思える。
「学び」と「遊び」は対立構造ではなくてむしろ「遊び」の中に包含されているのではないか。
「遊び」の中におけるもっともエキサイティングなもの、それが「学び」ではないのか。
だって、自分が変容しちゃうんだよ。今まで生きてきた世界と違う世界を生きていくことになるんだよ。
そんなエキサイティングな遊びは雪山登山とか、そういう感じになっちゃいますよ。
この「自分が変わっちゃう」っていうのに対するマインドセットが、オジサンと若者を分けるのかもしれない。
キャロル・ドゥエック教授のいう「グロースマインドセット」と「フィクスドマインドセット」の違いだ。
http://hero.niiblo.jp/e256118.html
(参考:Everything is situated.13.4.19)
「チームで働きたい」と切実に願う若者のアイデンティティ形成の手法と(組織・会社から与えられた)自分のミッションを遂行していくことで、(肩書としての)自分を形成するという手法の違いがあるのではないかと思った。
後者は、ビラミッドのような積み上げ式のアイデンティティ形成方法を取り、一方で前者は、複数のチームに属し、そのチームで構想に参加・参画しかつ実践することを繰り返し、役割を果たしていくことで、複数の「自分(らしさ)」を獲得していく。
その1つ1つの点をネットワーク(コネクティングドット)したものが若者の「自分(らしさ)」の形成方法なのかもしれない。
「自分」とは複数個の点(自分の役割)のネットワークであるから、そのひとつひとつの点が変わってしまうこと、あるいは消滅してしまうことを畏れることはない。また違う点を打てばいいし、ネットワークを紡ぎ直せばいい。
たぶんそんな感覚なのかもしれない。
そんな彼らとチームを組み、成果を上げていくには、ピラミッドを崩していく(アンラーニングする)マインドセットと、「構想と実行の分離」をさせない「場」にフォーカスしたコミュニケーションが必要なのだろうなとあらためて思った。
Posted by ニシダタクジ at 06:14│Comments(0)
│学び
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