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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年05月24日

「つくる」こと、発見と変容

昨年から取り組んでいる探究学習では、

・個の力、チームの力⇒場のチカラ
・「達成と成長」⇒「発見と変容」モデル
・心理的安全性を高める探究ネーム
を大切にしてきた。

そして語ってきたのは、「まなぶ」から「つくる」へのシフトだった。
「つくる」を前にすると人と人はフラットになるし、(学校社会的)能力差が無効化される。

そんなタイミングで「ジェネレーター」を読み、そしてその1つ前の
「クリエイティブ・ラーニング」にたどり着いた


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

今日、読み始めたばかりですが、プロローグでもうすでに、すごいことになっているのでアウトプットせずにはいられません。

~~~以下メモ
「6Cs(シックスシーズ)」 P5
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

コラボレーションとコミュニケーションがコンテンツ、クリティカルシンキングより先に来ている点。
⇒人間は生まれながらにして社会的存在でありその中で交流し、協働し、学んでいく。

ここ100年とこれからの社会の変化と豊かさ指標
1 Consumption(コンサンプション:消費)を中心とした消費社会⇒どれだけ商品やサービスを享受しているか
2 Communication(コミュニケーション:)を中心とした情報社会⇒どれだけよい関係やコミュニケーションをしているか
3 Creation(クリエイション:創造)を中心とした創造社会⇒どれだけ生み出しているか、どれだけ創造的でいるか

「つくる」ことが前提の社会になっていく。

30年後の人が今の時代を振り返るときに、「信じられないことに、自分が使う道具や身につけているものを、自分ではいっさいつくらず、すべてを買っていた時代」として、驚きをもって語られることになるだろう。

創造社会では、生活のあり方が変わり、ビジネスのあり方が変わり、教育のあり方が変わるのである。ありとあらゆるものが「つくる」対象になることは、すなわち、自分たちの未来を自分たちでつくるということを意味している。

創造的であることを一部の職種や天才に任せるのではなく、誰もが創造的に「つくる」ことに参加する社会。これが、本書が見据えている未来である。
~~~

いいなあ。そうそう。そうなんですよ。
「まなぶ」から「つくる」へのシフトが起こっているんです。
そして、それを裏付けるような一流たちからのコメントが熱い。

~~~
村上春樹は、自分が書いている小説が「どんな物語になるかは僕自身にもわかりません」と断言し、次のように語る。

主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっているんです。

ミヒャエル・エンデもこのように言う。

わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこかへ連れていき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身がちがう人間になりました。私の人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。

さらに「冒険」について、エンデは語る。

本当の冒険は、そんな力が自分のなかにあるとはそれまでまるで知らなかった、そのような力を投入しなければならない状況に人を運んでゆくものです。そうして、そんなふうにして自分を知ることになる。真の冒険者は実はそれを求めているのだと思います。そして、わたしは、いわば書くことを通じてそれを行っているのです。書きながら、わたしはわたし自身について何かを体験する、そのなかには、それがわたしのなかにあることも、わたしがそれをできることも、それまでまったく知らなかったことです。考えるだけでは、それはわからないことなのです。

さらに、KJ法の川喜田二郎氏の言葉「主体」と「客体」について

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。

参考:最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である(19.12.10)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html

これらの人たちが示していることは、小説を書くこと(つくること)は、新しい発見が生じるプロセスであり、何かを「つくる」ことはつくり始める時点ですでに自分のなかにある何かを外に出すということではなく、つくることで新たな発見が生じ、学びが深まり、成長につながるという「構造的」なものである。

「つくる」という冒険に出る。
探究的な学びとはきっと、こういうことなのだろうな、と。

この後、本書はそのかかわり方として「ジェネレーター」を提唱している。

知識を教えたりスキルを身につける機会をつくるティーチャーやインストラクターではなく話し合いの流れを促すファシリテーターでもなく、一緒につくることに参加するジェネレーターという関わりが必要になるのだと。
~~~

なるほど。「つくる」という冒険を生成するジェネレーター的なかかわりが重要なのだ、と。

さらに、もうひとつ。「自己表現」についても言及されている。

村上春樹が次のように述べる

~~~
今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという脅迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。・・・日本というか世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であることを押しつけているわけです。教育だってそういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを少しだも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。
~~~

「創造」「つくる」とは、自分の主張や自分らしさを表現するという「自己表現」をしようと呼び掛けているのではないと井庭さんは言う。

たんに自分を表現しているのでは、そこに学びや成長は見込めない。そうではなく、自分がつくっているもの(つくられつつあるもの)が「あるべきかたち」になるようにつくることによって、自分を超えたものに出会い、気づきがあり、成長が可能となる。村上春樹はつくるものの論理に身を委ね、それについていくことで自己表現の罠から抜け出せると言う。

~~~
物語という文脈を取れば、自己表現しなくてもいいんですよ。物語がかわって表現するから。僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方のようなものを表現しようとは思っていなくて、自分の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなのをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」の罠を脱することができる
~~~

これさ、「物語」とか「小説を書く」を「プロジェクト」に換えても同じだろうな。同じというか、プロジェクトという場に溶け出してこそ、いいアウトプットが出るのだと思う。そしてそれこそが「自己表現の罠」、つまりアイデンティティの呪縛を解くカギになっていくのだと。

いやあ、今日、僕確信しました。これでいいんだ、って。

プロローグは次のように締めくくられる。

このように、本格的な創造とは、つくっているものの「あるべきかたち」になるようにすることであり、その過程で、つくる対象やその世界を内側から体験することを伴う。それは自我の表出や作為というものを手放し、対象と一体になるという意味で「無我の創造」と呼びうるような創造である。そのような意味での創造の経験の機会を、教育の場では提供していくことがこれからますます重要になってくる。
~~~


・「つくる」という冒険に出る。
・その物語(プロジェクト)を走らせる。
・その物語(プロジェクト)に自我を沈める。

この繰り返しこそが「自己表現せよ」という呪いを解くカギなのだろう。

「つくりこと」から始め、発見と変容を繰り返す「場」を持つプロジェクトを設計すること。たぶん、そういうことだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)学び日記