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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年08月05日

「計画通り」じゃないことに価値がある

若者は、若いというだけで価値がある。
「存在」そのものに価値がある。

粟島に行くと、僕でさえ、若者だ。
そしてそのことを実感させてくれる。
高齢化率50%の島では、シーズンオフに行けば、
道を歩いているだけで話しかけられる。

「地域で何かやる」ということは、
ひとつは、この「存在承認」を得るためなのかもしれない。

そしてそれは、
地域の大人たちにとっては、
「活気」そのものだ。

大人たちは若者に何かをお手伝いしたい。
それが生きるモチベーションにつながっていく。

若者にとってはどうか。

僕は「キャリアドリフト」的に
大きな価値があると思っている。

予測不可能な時代。
どこに最先端があるか分からない。
頼りになるのは自らの価値観と感性だけだ。

それを磨くためには、
いろんな価値観(大人)と
いろんな感性(美しいもの)に
出会っていくことが必要だ。

そのためには、
アートに出会うこと。
そして、アートを生きる大人に出会うこと。
価値観と感性ある大人に出会うこと。

だから、
「やってみる」に価値がある。

「やってみる」⇒「振り返る」⇒「計画を立てる」の順番にする。
通常は
「計画を立てる」⇒「やってみる」⇒「計画通りにできたかチェックする」
というプロセスを学んでいる。

そして、
「計画を立てる」というプロセスで、
不安要素がたくさん出てきて、
「やってみる」をやめてしまう。

そして、実際「やってみる」ができたとしても、
評価されるのは、
「計画通り」かどうかである。

そうではなくて、
計画通りじゃないところで何を気づくか、学ぶか?どう判断するか?
が大切なのではないだろうか。

だって、未来は計画通りにはいかないからだ。

だから、イベントの時の振り返りは、
計画通りにできたかどうか?だけではなくて、

「予測できたよかったこと」=計画通りにできたかどうか?
「予測できた悪かったこと」=計画通りにできなかったことは何か?
「予測できなかった悪かったこと」
「予測できなかったよかったこと」

の順番に振り返りをすると、
学びが大きい。

とにかくやってみる。
そして「失敗」を学びに変えること。

エジソンは言った。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ。」
これが試作の時代に必要なマインドであると思う。

では、「やってみる」ことができたとする。
次に必要なのは、コミュニケーション・デザイン、だ。
相手の話を聞く、ということ。

これは、
「コミュニケーション力」ではない。
「コミュニケーション・デザイン」。
たとえば、初めてのデートに行くとします。

水族館、海浜公園、陶芸体験、ディズニーランド
どこにするか?
パスタ屋、お好み焼き屋、モスバーガー、ラーメン
どの店で食べるか?
相手と(相手が)話しやすいのはどの店か?

それを考えていくこと。
・四角いテーブルより丸いテーブル。
・椅子に座るときは90度の角度で座る。
・何かを飲みながら食べながら。(特におせんべいがおすすめ)
・ぶっちゃける。(心を開く)
・質問する。(相手のことを知りたい)

そうして、相手のことを分かっていく。

「双方向」なコミュニケーションから
新しいサービスが生まれる。

僕がボランティアを初めてしたのは、
2004年、30歳のとき。
新潟県中越地震。
川口町で子どもと遊ぶボランティアをしていたとき、
とっても苦しかった。

学校にいけない。
水道もガスもでない。
親は相手をしてくれない。
そんな極限状態のなかで子どもたちと遊ぶ。

遊んでいるときの子どもたちは笑顔だ。
しかし、時間は過ぎる。
あっという間に終了時間の16時になる。

車に乗って、現地を去る僕たちを
子どもたちが追いかけてくる。

僕たちは車の中で黙り込む。
それは新潟市に帰るまで続く。

無力。
圧倒的な無力感。
僕たちは彼らの役にたっているのだろうか?
そんな問いが生まれる。

その3年後。
中越沖地震が起こる。

今度は刈羽村で子どもと遊ぶボランティアのコーディネートをする。

中越地震でホールアース自然学校に習った、
「同じ人が3日以上同じ場所に行く。」
を実施した。

毎日違う人が来るとストレスになる。
昨日と同じおにいちゃんおねえちゃんが来たほうがいい。
そんな信念のもとに作られた。

子どもはニーズを発しない。
「3日以上同じ人に来てほしい」とは言わない。
しかし、おそらくはそうだろうと、
相手の立場に立って想像して、何かを差し伸べる。

それがうまくいったかいかないのかを検証する。
振り返りの時間だ。

刈羽村では、ボランティアの最後に
30分の振り返りの時間を設け、
行動を振り返った。

「ボランティア」とは
「やってみる」⇒「振り返る」の連続だなあと思う。

「ボランティア」はよくハートのマークでされるが、

そのハートは、ボランティアをする側からされる側に
一方的に与えられるのではなく、
ボランティアをされる側がもっている半分のハートに
あった半分のハートを、コミュニケーションをとりながら、
もっていくことで、ひとつのハートができていくという
行為なのではないかと僕は思う。

それを繰り返すことで、
将来も、お客さんが待っているサービス・商品を
生み出すことができる価値観・感性が磨かれていくのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 06:50Comments(0)日記

2015年08月04日

「承認」があるからチャレンジできる

「自信」をつける前に「承認」されなければならない。
そういうことなのかもしれない。

「チャレンジすることが大事だからチャレンジしろ」
と言うだけでチャレンジする若者は少ない。

自信をつけるために、小さなチャレンジをする。
小さな成功体験が小さな自信を生み、さらならチャレンジを生む。
これがいわゆる「チャレンジ仮説」である。
「チャレンジドミノ」と言ってもいい。

ところが。
本当に自信のない人には、
最初の小さなドミノが倒せない。
チャレンジが始まらない。
だから、いつまでたっても自信はつかない。

この最初のドミノを倒すために、どうしたらいいのか?

ここで重要になってくるのが
「承認」ではないかと考える。

誰かに承認される空間があること。
承認される相手がいること。

もしかしたら、
ネット空間には、バーチャルな人間関係空間、ではなくて、
「承認」空間が広がっているのかもしれない。

フェイスブックスでのいいね!や
ツイッターのリツイート、LINEのスタンプを求める。

しかし本当は、
現実世界にそのような空間を生み出さなければ、
「親和的承認」(山竹伸二「認められたいの正体」より)
が満たされることは少ない。

そのためには、
「田舎」と「商店街」と「本屋」
という空間が役に立つのではないか。

佐渡の北に浮かぶ人口300名の粟島を
海水浴シーズンではないときに訪ねると、
島を歩いているだけで、
島の人たちに話しかけられる。

「何もない島に何しに来たのだ?」

と聞かれる。
民宿に泊まると、
「することないだろうから、車を貸してやる。」
と言われて、車を貸してもらえたりする。
2泊するだけで、民宿が自分の実家のようになる。

何もない島、粟島には、
圧倒的な「承認」がある。

もちろんそれは、
そこに住んでいる人たちにとっては、
「しがらみ」と同じ意味の言葉となるのだが。

旅人、特に若者にとっては、
「自分は若いだけで価値があるのではないか?」と
勘違い(実際は若いだけで価値はあるのだが)することになる。

その小さな「承認」がチャレンジを
後押ししてくれるのではないか?と僕は思っている。
チャレンジできる「自信」をもつ人は、
そのベースとなる「承認」機会、「承認」空間を持っているのではないか。

ありのままの自分を、他者も自分も
認めてあげる機会をもっているのではないか。

そして、その「承認」こそを
失ったのが現代社会なのではないか。

「しがらみ」を避け、都会に出てくる。
「しがらみ」は古いと、地域行事がなくなっていく。

それは「承認」機会の減少を引き起こす。

「ホスピタリティ」とは、「承認」欲求を満たす行為のことなのではないか。
だからこそ都会ではそれを小売店や飲食業、ホテルなどのサービス業が
生み出していくという仕組みをつくった。

しかしそれは、
伝説のサービスなどを除き、
「かけがえのない自分」が承認されているわけではなく、
「消費主体としての大勢のうちのひとりとしての自分」が承認されている。

承認を得ること。
特に親和的承認を得ること。
それは本来は家庭や地域がもたらしてくれるものだが、
残念ながら家庭に頼ることはできない。

だからこそ、
地域の出番なのだろうと思う。

「承認」機会を生み出し、
小さなチャレンジドミノを倒せるような状態にすること。
実はそれが一番大切なのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:14Comments(0)日記

2015年08月03日

タスク化思考

チーム「コメタク」の堀さんとの話。

多くの大学生が
「タスク化思考」になっているのではないか?
ということ。

タスク化とは、
やるべきことを細分化し、
優先順位を立てて、
ひとつひとつ「ツブして」いくような思考・行動法。

計画を立てて、
実行するときに、
そのタスク化思考が必要となる。

300名にアプローチするために、
1つ目にこれをやり、2つ目にこれをやり
そこで一度検証して、改善して
3つ目、4つ目の手を打つ。

そのとき、
「計画的に」「効率的に」やることが大切である。

そのときに細かいところで「感性」を
発揮してはいけない。
淡々と、タスクをこなしていくということが大切だ。

国立大に受かる、
ということはその能力に長けていることを占める。

5教科7科目。
それをこなすには、
「タスク化思考」を身に付けるのが近道だ。

要領よくやること。
いうなればマネージャー適性があるのかもしれない。

そうか。
もしかしたら「マネージャー」を育てるという意味では、
国立大学の受験は意味があるのかもしれない。

プロジェクトごとに目標を設定し、
人とやることをディレクションして、
それを淡々と管理すること。
それができることが、工業社会のマネージャーの条件だった。
しかしそれは答えのある時代のことではないか。

世の中は、感性と価値観の時代を迎えている。
そのときにタスク化思考では超えられないのではないか。

目の前で起こっていることに感性を発動させ、
「価値とは何か?」問いかけ、自分なりの答えを出していくこと。

これを繰り返していくことが、
新しいものを生むことにつながるのではないか。

もちろん、
計画を実行するときに、ある程度の
タスク化思考は必要だろう。

しかしそれを過度に高度化してしまうと、
感性を発動する機会を失ってしまう。

感性と価値観を磨くこと。
これこそが20代の宿題であると僕は思う。

「効率化」を越えて、
非効率に、感性と価値観を磨いていこう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)日記