2017年03月19日
アーティストと作品の関係
アーティストは最初、作品によって見出される。
いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。
すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。
本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。
一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。
その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。
でも、作品は残る。
記憶にも残る。
アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。
その人の作品だから買おう、ということが起こる。
著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。
それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。
アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。
しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?
岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。
そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。
「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。
岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。
アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。
しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。
それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。
作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。
その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。
そんなことをふと考えたいい時間をもらった。
いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。
すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。
本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。
一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。
その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。
でも、作品は残る。
記憶にも残る。
アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。
その人の作品だから買おう、ということが起こる。
著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。
それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。
アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。
しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?
岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。
そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。
「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。
岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。
アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。
しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。
それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。
作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。
その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。
そんなことをふと考えたいい時間をもらった。