2018年01月17日
「自由」への学び(前編)

「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)
読み進めています。
オランダの公教育を題材に
深く教育について問い直す1冊。
第4章の苫野一徳さんのところが
学び多いので、メモします。
~~~以下メモ
現在において、「自由」に生きるための力とは何か。
現在とは、「知識基盤社会」と「グローバル化社会」である
「知識基盤社会」。
産業主義社会が終わり、ポスト産業主義社会を迎えた今、
すでに多くの商品が市場に行き渡っています。
単純な大量生産・大量消費はあまり成り立たず、
企業は、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。
産業主義社会においては、
多くの企業が求める人材の大多数は、
一部の経営者層の支持に従い、
「言われたことを言われた通りに効率よくこなす」
ことができる労働者であったと言えるでしょう。
そのため、学校教育もまた、
子どもたちに、「決められたことを決められた通りに勉強させる」
ことが、ある意味では求められていたと言えるでしょう。
ポスト産業主義社会(知識基盤社会)では、
「言われたことを言われたとおりにこなす」
だけでなく、みずから考え、また多様な人たちと協同して
課題を解決していける、そんな力が求められるようになっているのです。
「学び続けることを余儀なくされる」現代社会においては、
「学ぶ力」「考える力」「考え合う力」を
すべての子どもたちに育み、保障しなければならないというべきなので。
この息苦しい時代・社会において、
どうすれば自分なりの幸せや喜びや自由を
得られるのだろうか?
そのための力能は
いったいどのようなもので、どうすれば学び取っていくことができるのか?
子どもたちは、こうした問いを、ただ教育から受け身に与えられるだけでなく、
みずから考え、学び、そして多様な人たちと協力し合って、答えを
見出していく必要があるのです。
「決められたことを決められた通りに」
「言われたことを言われた通りに」
勉強させることが中心の教育では、
そんな子どもたちを力強くはぐくみ支えていくことは困難でしょう。
以上のような学力観の転換は、一般に
「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」
といわれています。
つまり、どれだけの知識・情報(コンテンツ)をため込んだかよりも、
それらを駆使して何ができるのかという能力(コンピテンシー)が
今日求められているというのです。
OECD-DeSeCo「キーコンピテンシー」
「相互作用的に道具(言語・知識・情報)を用いる能力」
「異質な集団で交流する能力」
「自律的に活動する能力」
国立教育政策研究所「21世紀型能力」
「思考力」を中核に、それを支える「基礎力」、
そしてこの両者を方向づける「実践力」の
三層構造から成るものです。
~~~ここまでメモ。
うんうん。
たしかに、世の中の変化からいって、
そういう方向で進んでいくのは間違いなあと。
次、「グローバル化社会」について書きます。