2021年02月22日
「自分らしさ」は、原因ではなく結果
中京圏の大学生向け「就活」テーマイベント「就活を哲学する」でした(オンライン開催)。
「就活」の違和感がどこにあるのか?
そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。
僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。
最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07
そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。
「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。
人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。
特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。
だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。
そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。
芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。
劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。
こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。
就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。
そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。
「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。
そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。
そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。
大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。
あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。
「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。
「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。
誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?
そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。
それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。
「就活」の違和感がどこにあるのか?
そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。
僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。
最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07
そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。
「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。
人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。
特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。
だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。
そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。
芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。
劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。
こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。
就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。
そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。
「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。
そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。
そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。
大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。
あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。
「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。
「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。
誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?
そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。
それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。