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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年03月15日

士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし


「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)

ジュンク堂で話題書コーナーから本に呼ばれて立ち読みしていたら、
スルスル入ってくるのでうっかり購入。

まえがき。
もうこれでOK。
1650円の元は取った。

違和感の正体のひとつ、見つけた。
そんな感じ。

本文中にも何度も出てきますが、
「サル化する」っていうのは、故事「朝三暮四」からきている。

~~~
中国、宋の狙公(そこう)が、飼っている猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと猿が少ないと怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだという(コトバンクより)
~~~

まあ、そういうかんじです。
まえがきに本質的な何か、があったので、引用します。

~~~ここから引用

そうか、今の日本人たちは「身のほど」を知ることが端的に「よいこと」だと思うようになったのか。

身のほどを知り、分際をわきまえ、身の丈にあった生き方をすることが強く推奨されており、それから外れて、おのれの分際をわきまえずに、身の丈を超えた生き方をする人間は批判と処罰の対象になる、と。

「身のほどを知れ、分際をわきまえろ」という圧力が日本社会のすみずみに行き渡っていて、しかもこの「身のほどを知れ」という圧力は、表面的には「自分らしく生きる」という教化的なメッセージの美辞麗句をまとって登場してくる。

「自分らしく生きろ」という、一見すると子どもたちを勇気づけるように聞こえるメッセージは、実は、その本音のところでは、「はやく『自分らしさ』というタコツボを見つけて、そこに入って、二度と出て来るな」といっているのじゃないでしょうか。

「自分らしさ」とか「個性」とか「本当にやりたいこと」とかいう言葉で装飾されていても、子どもたちは直感的にそれが「罠にはめられて」「息ができなくなって」「身動きできなくなる」状態へ誘導するものだということを感じている。

今の日本社会は「成熟する」ということが「複雑化」することだということを認めていない。逆に成熟することは「定型に収まって、それ以上変化しなくなること」だと思って、そう教えている。

~~~ここまで引用

その後、内田さんは、そんなわけないじゃないか、って説きます。

生物は単細胞の生物が細胞分裂してどんどん複雑なものに変わっていく。それが成長であり、進化である。人間だって同じで、成長するにつれて、どんどん複雑な生き物になるに決まっている。考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる。そういうものでしょう、と。

そして、三国志の逸話をひき、
「士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし」と。

しかしながら、この30年のあいだのどこかで「成熟する」ということの意味に変化があったのでしょう。

成熟するとは変化することである、三日前とは別人になることである、という古代からの知見が捨てられて、変化しないこと、ずっと「自分らしく」あり続けることがこの社会の中に居場所を得て、社会的承認を得るための必須の条件になった。

~~~ここからさらに引用

アクターのふるまいが絶えず変化すると、システムの制御がむずかしくなる。だから、システムの管理コストを最小化するために、人間たちは「成熟するな」という命令を下されている。知識や技能を量的に拡大するのは構わない、生産性を上げたり、効率的に働いたりすることは構わない。でも、自分に割り振られた「分際」から踏み出すことは許さない。ましてや別人になることは絶対に許さない。人をして「括目」せしめるような生き方をすることは許さない。

システムの効率的な管理が大切な仕事であることを僕はもちろん認めます。でも、システム管理の効率化を急ぐあまり、アクターである人間たちを同一的なままにとどめておくというのは長期的にはシステムの自殺行為ではないかという気がします。もし、国民が成熟を止め、変化を止め、どれほど時間を経過しても「括目して相待つ」必要がなくなったら、その国ではもういかなるイノベーションも、どのようなブレークスルーも起こらないからです。

~~~ここまでさらに引用

うう。
ううう。
うなるしかない。
教育の現場で起こっていることもまさにこういうことなのではないかと。

そしてまえがきのラストに内田さんからの提案。

「僕から皆さんへの個人的な提案は、『自分の身のほど』なんか知らなくてもいいんじゃないですかということです。『自分らしさ』なんかあわてて確定することはないです。三日前とぜんぜん違う人間になっても、それは順調に成長しているということですから、気にすることないです・・・というようなことです。みなさんが罠から這い出して、深く呼吸ができて、身動きが自由になった気がすること、それが一番大切なことです。僕はそう思います。いかがでしょう。」

あ~、ほとんど写経してしまった。

読書の醍醐味のひとつは
「違和感の言語化」にあると僕は思ってます。

「自分らしさ」
「自分さがし」
「本当の自分」
って言葉たちから感じていた違和感。

「学ぶ」っていうのは、いままで5分かかっていた計算が3分でできる、みたいに量的に何かができるようになることではなくて、ビフォアアフターで違う自分に変容するということ。

そして学びの醍醐味というのは、まさに3日経ったら別人になっている、ということ。

新型コロナウイルスによる休校措置の先に全くの別人と出会えるような
「士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし」な世界を実現していくこと。

2月のSCHシンポジウムでも言っていたけど、
「探究的な学び」っていうのは、「変態する」っていうこと。
それは、生徒に限らず、その周りの人たちも含めて。

そんな「学びの場」を実験・実践してみようか。  

Posted by ニシダタクジ at 05:49Comments(0)学び