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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年03月29日

教育の主体は集団であり、教育活動から受益するのも集団である。


「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)

2週間前にジュンク堂でスルスルと引き込まれてかった1冊。
このご時世で本をたくさん買いすぎて、後回しになっていましたが
ようやく佳境へと入ってきました。

第4章 AI時代の教育論 「AI時代の英語教育について」

なんというか、本質だなと。
えぐるような本質を突いてくる。

まずは、自動翻訳機の進歩について。
もはや日常会話に困らないほどに、
ドラえもんの夢の機械「ほんやくコンニャク」が
すでに手のひらサイズで実現しているのだという。

~~~以下引用

科学技術は進化して、場合によっては英語教育の根幹部分についてのこれまでの工夫や議論を無効化してしまうような変化が起きている。

(中略)

日本の小・中・高の先生方は、「何のために英語を学ぶのか?」ということについて、今や根源的な省察を要求されています。これまではそんなことを考える必要がなかった。英語を学ぶことの必然性・有用性は自明のものだと思われていた。でも、それが揺らいできた。

~~~以上引用

そして、内田さんは外国語学習について語るときの「目標言語」と「目標文化」という言葉について説明します。内田さんの世代の英語学習の動機は、その向こう側にある「アメリカ文化」だったといいます。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路して英語という「目標言語」を学んだというわけです。そして、今の英語教育には、目標文化が存在しない。英語という目標言語だけはあるけれど、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか、わからないのだと言います。

文科省が「英語が使える日本人」を言い出してから、英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためになった。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティブにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。

文科省の「英語が使える日本人」の育成のための計画の冒頭で、経済、競争、そして格付けの話が来る。

「ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちが持っている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと『ひどい目に遭うぞ』というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって『喜び』でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。」

さらに、英語教育のゴールが「ユニクロのシンガポール支店長」であるような時に何が起こるのか?について以下のように断じています。

「達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことのある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか、勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最小の努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。」

そう。
「下流志向」(内田樹 講談社文庫)に詳しく書かれているように、教育はいつの間にか「お買いもの」になってしまった。単位や学位や資格は「商品」で学習努力が「貨幣」である。「よい消費者であること」に教育された子どもたちは、最小の努力で最大の単位をほしがる。

こうやって教育は劣化していくのだと内田さんは言います。

じゃあ、どうすればいいのか?

内田さんは「成績をつけない」教育のすすめと続けます。
成績をつけない。生徒たちを格付けしない。教えたいことがあるので教える。聞きたい人は聞いてくれ。そういう授業をする。

~~~以下引用

同年齢集団の中で相対的な優劣を競わせるのは「促成栽培」です。農作物を育てるときに、農薬や肥料を大量に投与したり、人工的な環境で育てるのと同じです。すぐに効果は出るけれど、それは本当に力がついたわけじゃない。

(中略)

同年齢集団内の相対的な優劣を競わせて、お互いの知性が活性化するのを邪魔し合ってゆけば、子どもたちの生きる知恵と力はどんどん減退していく。それは今の日本の現実を見ればわかるはずです。

(中略)

優劣を比較する対象があるとしたら、それは「昨日の自分」だけです。「昨日の自分」と比べて「今日の自分」がどう変化したのか、それは精密に観察しなければなりません。昨日まで気づかなかったどういう感覚が芽生えたか。昨日までできなかったどういう動きができるようになったか。そこには注意を向けなければいけない。でも、同門の他人と自分を比べて、その強弱や巧拙などを論じても何の意味もない。本当に何の意味もないのです。修行の妨げにしかならない。

(中略)

われわれは子どもたちを格付けして資源分配するために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。

(中略)

集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。

(中略)

教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。

(中略)

教育の主体は集団です。教育は集団で行うものであり、教育を受けるのは個人ですけれど、その個人の活動から受益するのは集団です。「ファカルティ(faculty)」というのは「教師団」という意味です。教育活動を行うのは「ファカルティー」であって、教員個人ではありません。

(中略)

「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」を目指すものだからです。

~~~以上引用

長文を引用しました。
そして、この後、内田さんは、オーラル・コミュニケーション偏重の教育は「植民地言語教育」だと言い、母語を豊かにすることの重要性を説きます。すべての知的イノベーションは母語で行われるのだと。江藤淳と村上春樹がアメリカから帰ってきた後、ふたりとも「雨月物語」の上田秋成の後継者を目指すと言ったそうです。二人ともに自国文化の「近代以前」の深い闇の中に降りてゆくことが新しいものを創造するためには必要なのだと書いているのだそうです、

私たちは「母語の檻」の中にいる。その檻から出るには2つの方法がある。1つは外国語を学ぶこと、もう1つは母語を共にする死者たちへの回路をみつけること。これはとても大切な教えだと、内田さんは言います。


▽▽▽以下引用

子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。

△△△以上引用

「僕たちはなぜ学ぶのか?」という根源的な問いをもらいまくる一節だらけ。(引用しすぎた)

僕がこれまで感じてきた
「英語を使う仕事に就きたい」というキャリア目標の違和感だったり、
学校における勉強が個人戦であることへの違和感だったり、
そもそも学びの動機づけが「いい学校や職業」への手段だということへの違和感だったり。
そして何より、僕がなぜ、ここにいるのか?っていう問いだったり。

その違和感や問いに、一筋の光をもらえる1冊。

教育の主体は集団であり、
教育の受け手は1人1人の個人であるかもしれないが、
教育活動の受益者は集団である。

そんな、有史以来続いてきた本来の「教育」。

学ぶ理由は、その先にある何かにアクセスしたいから。
かつての昭和の音楽少年が心を揺さぶるビートルズとは何なのか?
を知りたくて、英語を夢中で学んだように。

そんな「学び」や「教育」の原点に返りたくて、
僕はいまここにいるのではないか、と誤読してしまう、
すてきな示唆に富んだ1冊でした。

内田先生、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 17:43Comments(0)学び