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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年12月24日

創造的ハイブリッドというお家芸


「日本習合論」(内田樹 ミシマ社)

タイムリーな本かも、って思って購入。
想像以上にインスピレーションが多い読書時間。
いろいろありすぎてうまく感想が書けません。

いきなりエマニュエル・レヴィナスの一言から。
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」
いいですね。

「理解と共感の上に人間関係を築く」これが現代日本の「常識」です。
でも、理解と共感に過剰な価値を賦与すべきではないと僕は思います。

「あいつは変わってる」
みたいなやつって、まさにその「常識」の上にある偏見なのだと思うのだけど。

そして、「事大主義(じだいしゅぎ)」について。「多数派は正しい」という信憑。
これは、コロナの「自粛警察」とか芸能人のスキャンダルに対しての反応とかにも言えると思うのだけど、多数派でないことで攻撃される。
もちろん「和を乱さない」ということは、集団を安定的に維持するためには必要であるのだけど。
これはさらに言えば、「多数派であること」が正しいこととイコールになってしまうということ。
それは本当に危険だなあと。

だって、「集団が安定的に維持される」っていうのは、現時点でもはや、考えられないですもんね。
「安定的に」は、人口減少して集落も町も無くなっていくんです。

みんな「不安」だから、多数派に属していようとする。
だから過度に「理解と共感」に現れちゃっているのが現在の状況なのかなと。
「身の程を知れ」っていう言葉からは何も創造できないですもんね。
この本にも書いてあるけど「動的な調和」っていうのがあり得るのではないかと。

そして、「ミスマッチ」について。
この本では阪神大震災のボランティアで起こった「ミスマッチ」を題材に、
次のように述べられている。

~~~ここから引用

ミスマッチでいいじゃないですか。知らない同士がそれぞれの思いを抱えてピンポイントで出会うんですから、共感できないのが当たり前です。

ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ、間違った学校に入り、間違った人と友だちになり、間違った相手と結婚して、間違った仕事を選んで、間違った人生を送る。そういうものなんですよ。

「ミスマッチ」が悪だと思うのは「マッチすること」がふつうだと思っているからです。共感主義者たちは「マッチすることがふつうだ」と思っている。だから、「何も言わなくても、気持ちが通うはずだ」というようなとんでもないことを期待する。そんなわけないじゃないですか。

~~~ここまで引用

そうなんだよね。「ミスマッチ」をエラー(失敗)ではなくて、「ミスマッチ」を前提に仕組みを構築しなければいけない。
だからこそ、ミーティングの度に「最近あったよかったこと」を言いながら「チューニング」する必要があるんだと。

そして、この本の中心テーマは「神仏習合」と「神仏分離」です。

六世紀に仏教が伝来して以来、
土着の信仰と儀礼を「仏教とは違うもの」として位置づけたことで、
神道はかたちづくられました。

以来、1300年ほど、仏教と神道は癒合したかたちで存在していました。
神社の中に寺院があり、寺院の中に神社があるという共生です。

ところが、慶応四年(1868年)、神仏分離令によって神仏は引き裂かれてしまいます。
千年以上続いた伝統が政令1つで途絶してしまう、
さらにそれを受け入れてしまう国民に、内田さんが
「なぜだ?」と思ったのがこの本の始まりです。

地域によって異なりますが、「神仏分離令」は「廃仏」と解釈した場所では、
激しい廃仏運動が起こり、歴史的なものが多く失われました。
詳しくはこの本を読んでもらうとして、ここでは「聖地巡礼」の話を。

~~~ここから一部引用

「お伊勢参り」は、江戸時代において、我が国最大規模の聖地巡礼であり、同時に最大規模の観光旅行でもありました。
天保元年(1830年)には427万人、実に総人口の8人に1人は伊勢神宮に参拝した計算になります。
そこに一大ビジネスが生まれます。「御師」と呼ばれる人たちが各地からの伊勢神宮参りに取り仕切り、
またオフシーズンには地域を回ったのだそうです。

「聖地巡礼」と「観光」はセットだったのです。つまり宗教活動であり、楽しみの活動でもあった。
ところが、「観光」という言葉の登場で、宗教的行為と観光は切り離された。
そうか。そもそも「観光」は、「聖地巡礼」を前提としていたのか。
そしてその成立のためにはその仕組みを支える「御師」や宗教家などの「旅する人たち」が必要だった。

しかし、政府はそれを嫌った。
近代国家にとって、管理外の人たちを減らしたかった。
「国民を移動させないこと」が近代国家成立に必要だった。
こうして「宗教の近代化」「土着のものの浄化」が
国をひとつにまとめていくための政策として採用された。

それから150年の時がすぎて、羽黒山に来る若い人たちを見ていると、
再び、神仏習合に還ってきているのではないかと内田さんは説明します。

~~~ここまで一部引用

「習合」というキーワード。
食べ物で言えば、「あんぱん」や「カレーうどん」や「たらこパスタ」のような。

戦わず、主導権を争わず、合わせてしまう。
それを今風に言えば、「創造的ハイブリッド」となるかもしれません。
たぶんこれが1300年続いてきた我が国のお家芸なのでしょう。

だから本当は、「多数派」に従うような「事大主義」ではなく、
「少数派」を取り入れ、創造的にハイブリッドしていくこと。
理解と共感をベースにしない「協働」をたくさんつくっていくこと。

「高校(教育)魅力化」っていうのもそういう文脈で語れるのではないかと。
地域には何百年と積み重ねられてきた「営み」がある。
そこに「学校」という西洋由来のシステムが入ってきて百数十年。

それを「習合」させていく取り組み。
「創造的ハイブリッド」を生み出していくこと。
具体的に言えば、それが地域での探究活動だし、
その地域ならではの「マイプロジェクト」ということになるのだろう。

「理想的な学校をゼロから新設する」のではなく、
「習合」という観点で創造的ハイブリッドを目指すような「高校魅力化」プロジェクトが
できるなら、僕にとっては、そのほうが創りたい絵、なのかもしれないな、と。

阿賀黎明探究パートナーズのみなさん、令和3年、いよいよ始まりです。
よろしくお願いいたします。  

Posted by ニシダタクジ at 06:26Comments(0)