2020年12月26日
「わたし」をやわらかく開く

「はみだしの人類学~ともに生きる方法」(松村圭一郎 NHK出版)
読むべき本にタイムリーに出会えるって幸せだなあと。
たぶん、レヴィナスが言っていた
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」
じゃあ、どうすりゃいいんだ?
っていう問いに一定のヒントを与えてくれる1冊。
冒頭から「近代」に対する問い。
~~~
「近代社会」を支える人間観・社会観の中心に「個人」という存在があります。
確固とした「個人」が間違いなく存在する。近代はこの個人としての「わたし」の存在をもとに、
その個人が集まって社会を構成している、という考え方を発展させてきました。
でも、歴史的に見れば、それは必ずしも「あたりまえ」でも「自然」でもありませんでした。
~~~
興味を引く導入ですね。
そして次に「つながり」について言及します。
~~~
「つながり」には、ふたつの働きがあります。
存在の輪郭を強化する働きと、反対にその輪郭が溶けるような働き。
「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方の側面に目を向ける必要がある。
~~~
現在起こっている「つながり」の可視化(SNS等)によって起こっているのは、「存在の輪郭が強化される」です。
エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で述べたように、「オリエント世界を描く」ことは「ヨーロッパ人が何者であるかを知る」ためにある。つながりを通してAとBが何者であるかが定まるように、他者表象と自己理解は別々の営みではなく、同時に起きているのです。そうして、文化人類学は「異文化」を理解するための学問というよりも、異文化との出会いを通して自分たちのことを理解しようとする学問であると認識されるようになりました。
フレデリック・バルトは、「エスニック・バウンダリー論」を提唱し、民族集団はそれぞれ言語や文化、習慣といった内側の要素から定義されるのではなく、境界(バウンダリー)を接している他民族との関係によって定義される、としました。
次に、「輪郭が溶ける」について
松村さんはフィールドワークで訪れた場所での気づきを、次のように述べます。
それまで「わたし」という存在は明確な輪郭をもって存在していると思っていました。でも、見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れることで、それまで「輪郭」だと信じていたものが揺さぶられる。その揺さぶりによって「わたし」のなかの大きな欠落に気づく。その欠落を埋めようと、「わたし」がそれまでの輪郭をはみだしながら他者と交わり、変化していく、そんな経験だったのです。
イギリスの人類学者ティム・インゴルドは、その著書「メイキング」で、人類学の参与観察は対象についての研究ではなく、相手とともに考えるプロセスなのだとはっきり書いています。そこで互いに変容することのほうが、客観的データを収集するより大切なのだ、と。自分たちの知識や枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。
人類学のフィールドワークでは、人びとの生活の中に入り込み、長い時間を一緒に過ごします。そうしているうちに「わたし」の輪郭が溶けて、他者であるはずの「かれら」の存在へとはみ出していくような経験をします。そのとき「わたし」と「かれら」の境界があいまいになり、もともと「わたし」だと信じていたものが、そうではないあり方へと導かれる。たしかにそこに「ある」と思っていた「わたし」の人格や価値観が絶対的なものではなく、容易に変化しうることに気づかされるのです。
私たちは他者とつながるなかで境界線を越えたいろんな交わりをもちます。それによって変化し、成長することもできます。それは「わたし」という存在が、生まれつきのプログラム通りに動くようなものではなく、いろんな外部の要素を内側に取り込んで変わることができる「やわらかなもの」だからです。
「わたし」が溶ける経験を変化への受容力ととらえると、ポジティブに受け止められると思います。さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、いまの「わたし」がいる。その出会いの蓄積は、その人だけに固有のものです。だれ一人として、あなたと同じ人に同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性の上に成り立っている。
でもだからこそ、いまの「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者からあらたな「わたし」を獲得しているのですから。
この後、
平野啓一郎さんの「分人」理論(「自分」とは何か? 講談社現代新書より)を人類学視点から説明します。
状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。
「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。
他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。
「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?
もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。
この本のラストに、まとめがあり。
輪郭が強調されるつながりを「共感のつながり」と定義し
輪郭が溶けるような、他者と交わるなかでお互いが変化するようなつながり方を「共鳴のつながり」と呼びます。
共感して「いいね!」をつけるのではなく、
自他の区別があいまいになり、「わたし」が他者との響き合いをとおして
別の「わたし」へと生まれ変わっていくといったイメージです。
~~~ここまでいろいろ引用
いやあ、これはすごい本だなあ。
僕が「場」に溶ける、「場を学びの主体にする」とかって言っていたことの
理論的な裏付けができているのかもしれない。
「取材型インターンひきだし」とか「にいがたイナカレッジ」とかでの大学生との対話でも、
「やりたいこと」とか「個性」とか「強み」とかって言っているけど、
そもそも、それを問うことで「自分らしさ危機(アイデンティティ・クライシス)」の負のスパイラルに落ちていっているのかもしれない。
「自分」を起点に考え、
「自分」と他者を分けること、
「自分」で意志を持ち、目標を立てること
そのものが「自分らしさ危機」を招いているのかもしれない。
そして僕が取り組みたいのはまさにそこだ。
「わたし」をやわらかく開くこと。
「場」に溶けだしていること。
「他者」と影響しあい、求められる「役」を演じること
「自分」という単位で考えることを
「自分たち」や「場」や「関係性」でとらえ直すこと。
そうやって委ねているうちに、
いつのまにかたどりつく「わたし」、
変化し続ける「わたし」を楽しんでいける、
そんな日々を送ってみたいと僕も思うのです。