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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

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2017年04月24日

サードプレイスは「提供」できない


サードプレイスとしての本屋を考える@新城劇場 17.4.23

なんだか。
面白かった。

一番おもしろかったのは、
「サードプレイスは提供できない」
っていうこと。

特に中学生高校生にとってはそうなのかもしれない。
スターバックスのように、「サードプレイス」という商品に
お金を出して買う、というようなものではないのかもしれない。

なぜなら、
中高生のころを思い出してもらえば、
「サードプレイス」とは、
自ら発見し、つくっていくものであった。

ある人にとっては、
レコード屋のおやじがいる空間であり、
ある人にとっては、
仲間と話した部室だったりする。
家庭、学校(職場)ではない、第3の場所。

それはもしかしたら提供できないのだ
と思っていたら、タイミングよく、
10年以上ぶりに飛び込んでくる本がある。

これが最近の読書運の良さ。


駄菓子屋楽校(松田道雄 新評論)

著者は「駄菓子屋の教育的意義」を研究テーマとして、
ひたすら研究し尽くした。

そして、山形市内で
「だがしや楽校」という、
大人が子どもに様々な遊びを披露する場を始める。

僕は2004年にこの本を読み、
いたく感動して、2005年から「だがしや楽校」を
新潟市の巻と、中越地震後の旧川口町で取り組む。

この本では、
加藤理氏の「駄菓子屋・読み物と子どもの近代」という本の
「子どもが作り出した駄菓子屋」の項を取り上げ、「駄菓子屋」の定義を
「子どもが駄菓子屋だと認知した店が駄菓子屋なのだ」と結論している。

~~~ここから一部引用

「羽田郷土誌」(昭和29年)によれば、
資料によって「子供用小菓子店」の数が
9店だったり、20店だったり資料によって大きく異なるのです。

その謎を、
加藤氏は、9店とは、自分の店が駄菓子屋だと自覚して
自己申告した数で、20店とは、客である子どもや
第三者の調査者がその店を駄菓子屋だと認知した数だと
説明しています。

そしてこの事実から
「駄菓子屋という概念は、店の経営者たちが
作ったものではなく、じつは顧客である子どもたちが
作り出した概念だった」と述べて、次のようにまとめています。

「つまり駄菓子屋とは、店の経営者である大人が、
子どもたちを顧客とした子どもたちの店を開こうと
思って開いた店ではないのである。

需要に応じて品揃えをしていった結果、子どもたちに駄菓子屋
と認知されるようになっていった店をさしていたのである。
もう少し別の表現をすると、大人たちが、駄菓子屋とはこういう店、
これが子どものためにふさわしい店、と考えて用意し子どもたちに
提供したのではなく、数ある店の中から、
子どもたちが自分たちの店、として認識した店が駄菓子屋になっていったのである。

その意味ではたとえ本来は八百屋だったとしても、
子どもたちが駄菓子屋だと認めればそこは子どもたちにとって
駄菓子屋になるし、認めなければ、たとえ品揃えが駄菓子屋的
であっても駄菓子屋にはならなかった、とも言えよう。

~~~ここまで一部引用

実際に松田さんも
子どもたちに聞いた「駄菓子屋」をたずねてみたら、
そこは八百屋だったり、小鳥屋だったりという
思い描いていたオーソドックスな駄菓子屋像とは大きく違ったのだという。

そしてそれは「大人世界」と「子ども世界」
の違いであり、

駄菓子屋は、子ども世界の主観的現実の中に存在し、
それは空き地につくる「秘密基地」と同じようなものだったのだ。

なるほど。
この後、話は、「市の教育学」という
「屋台のある本屋」の本質に迫っていく。

なんていう読書運なんだろう。
明日が楽しみ。

ということで、
イベントの話に戻ると、
中高生に「サードプレイス」を提供することはできないのだということ。

大人社会から見た「サードプレイス」像を
彼らがそのように認知するかどうかは
別の問題なのだ。

ということは、やはり、つくる段階から、
大人社会ではない、向こう側から見た
サードプレイスをつくっていくことが必要である。

それはかつて読んだ、
坂口恭平さんが「独立国家のつくり方」で言っている
「無数の放課後社会」のひとつとなるのだろう。

自由とはタテの世界を行き来すること(13.1.19)
http://hero.niiblo.jp/e229119.html

だとしたら、
おっさんの出番ではなく、
大学生や20代の出番なのだろう。

いや、「子どものような大人」なら、
なんとかなるかもしれない。

現在の中学生や高校生の話を聞き、
彼らを想像しながら、ともに創っていくもの。

そんな「場」や「空間」づくりをこれからやっていく。

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Posted by ニシダタクジ at 08:01│Comments(0)学び
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