2019年09月22日
「あきらめない理由」に出会うこと。

ひろのアートキャンプの準備を終えて、
ふたば未来学園高校の「未来創造研究」研究発表会の
午前中の分科会に少しだけ顔を出してきました。
3つのプロジェクトのまとめのセッションにもやもやしたので、整理してみます。
~~~ここからメモ
作業療法士を目指している高校生が地域のおばあちゃんと話す。
「こんなに笑ったのは震災の後初めてだ」と聞く。
内面の復興は進んでいないのではないかと感じる。
心が動いた。それがいつなのか?それを掘り下げていくこと。
「見学」→「計画」→「実践」
そんな流れ。そこに仮説を組み込むことで「見学」が生きてくる。
「仮説」→「見学」→「新仮説」→「計画」→「実践」→「ふりかえり」→「新・新仮説」
そのサイクルに入れたら、「探求」自体が楽しくなってくる。
やってみると、問題点が出てきた!
→それを解決するために、大人の力を借りる。
→学校に来てもらって料理を教えてもらう。
→おばあちゃんの得意料理である「酢豚」「煮物」を作ってもらう。
→地域の人が地域で料理教室をやる。
「食」でつながる。っていうのと高校生バリューっていうのがある
1~3年の混じった振り返りセッション。
ここのファシリテーションが大切だと思った。
「目的」と「手段」みたいな話に集約していくのはどうなのかなあと思った。
「進路にどう生かすか?」みたいな問いによって、学びが「手段」になってしまう。
「機会」としての学びのために地域があるんじゃないのか?
目的・目標を達成することじゃなくて、その手段を選び、そのプロセスにあることによる心の動きのほうが大切なんじゃないのか?
「手段」そのものの「瞬間」に価値があるのではないか。そしてそれは非常に個人的なもの、その人特有のものだ。
「交流」を深めるために大切なものは?
共通のテーマ(相手の立場にたっているか?)と相手はどんなことを大切にしているのか?それを感じ取れるかどうか?それって個人の能力や精神論じゃなくて、コミュニケーション・デザインの問題ではないか。
実際は、「相手の立場に立つ」ことが大切なのではなくて、相手が「この人は私のこと分かってくれてるな」と感じていることが大切なのだよね。それはテクニックやコミュニケーション力ではなくて、コミュニケーション・デザインの設計のような気がする。
「3つの発表の共通点は何か?」という問いは、過度にプロジェクトをメタ化してしまう。それはそれで重要な能力なのだろうと思うのだけど、ジャンルの違うプロジェクトでそれをやったら、精神論的なものだけが抽出されてしまうのではないか。メタ化する前にもっと解像度を上げることが大切だと思う。「共通点は何か?」っていうより「何に、どんな瞬間に一番シビれたのか?」っていう問いを投げかけたい。
「おわらせたくない」「あきらめたくない」「やめたくない」のはなぜか?
「志」があるから?
社会的意義があるから?
やりたいことと社会的価値が一致しているから?
そういう側面もあると思うけど、高校生でも大学生でも大人でも、学びのスイッチが入ってしまったから、だと思いますよ。
自分だけのため→やめちゃう
社会だけのため→やめちゃう
だから、「自分のやりたいこと」が社会のためにつながるか?が大事。うんうん。わかるけども。それって事前にわかります?
「自分のやりたいこと」だからやめない、あきらめない?「意志」ってそんなに強く、すごいのだろうか。
「強い動機」に出会うこと。それが人生にとって大きい。
心を揺さぶられるような実体験、人の言葉、笑顔、空気感。
地域をフィールドにした学びが、それを得る機会になればいい。
プロジェクトの成果(社会的評価を伴うような)は、重要度としては2番手以下だ。
自分の「テーマ」と「ジャンル」を違う言い方で呼べないだろうか。
やっぱお客(対象)と、事業領域か。ジャンルは後付けでもいいのだよな。
「意志」とか「なんとか力」とかを信じない。
それをデザインの力で乗り切っていくこと。
それがデザイナーの仕事なのではないか。
そのストーリーづくりに参画しているのか?
誰かが作ったストーリーに出演させられているだけなんじゃないのか?
もっと、ひとりひとりのストーリーに重さを置きたい。
あなたはいつそう思ったのか。
具体的にどんなシーンだったのか。
そう思ったのはどうしてなのか。
もっと聞きたい。
~~~ここまでメモ
僕がいた部屋がたまたまそうだったのだと思うけど、めちゃめちゃ違和感。
「地域」で「探究」の意味とか意義ってなんだろう?
ってあらためて思った。
3つのプロジェクトの共通点は何か?
→挫折にくじけずにプロジェクトを前に進めたこと
→「あきらめなかった」のはなぜか?
→自分のためと社会のためがクロスしていたから
みたいなまとめに意味があるのだろうか?って。
なるほど、意味は分かる。
「自分のため」だけでも「社会のため」だけでも
継続するモチベーションにはならない。それはその通りだと思う。
その合わさるところにプロジェクトを作っていく、っていう考え方も分かる。
だとしたらなんだろう、この違和感は。
それが、高校生の「地域」で「探究」で学ぶべき本丸なのだろうか?
っていう違和感。
「なぜ、自分はこのプロジェクトをやっているのか?」に答えられること。
そのほうが大切なのではないか。
それは決して事前にわかるのではなくて、
やってみた後でわかることも多い。
実際にやってみたことで、予想しなかった何かが起こる。
思いもよらない発見や誰かの一言、やってよかったと思える瞬間に出会う。
そのときに高校生は、
「ああ、だから自分はこのプロジェクトを始めたのだ」と実感する。
その実感はきっちりとふりかえりの時間を確保して
誰かが質問してあげないと出てこないのかもしれない。
だから、そのような設計をすること。
そして、それをプレゼンで表現すること。
聞き手は、特に1,2年生は、そこに至るプロセスを知りたいのではないか。
それによってモチベーションが上がるのではないか。
共通項は何か?
あきらめなかったことです。
って言われても、
ノートに「あきらめないことが大事」とか
「自分のためと社会のためが重なるところにプロジェクトをつくる」とか書いても、
それが自分の活動につながるのだろうか?
プロジェクトをやったことで、
こんなことを起こり、こんな人に出会い、こんな経験をして、こんな自分に気づいたんだと。
そんなストーリーを聞きたいのだ。
プロジェクトの成果なんかよりずっとずっとそれを聞きたい。
どんな感情の動きやどんな学びがあったのか?を知りたい。
「高校生」が「地域」で「探究」の意味は、
そこにあるのではないか、って思う。
「あきらめない理由」に出会うこと。
プロジェクトを始めることで、何かが起こり、誰かに出会う。
そこで何かを感じる自分がいる。
そこにフォーカスすること。
「気づいたこと、学んだこと」の前に
「印象に残ったこと」という心のふりかえりをすること。
「機会」から学ぶっていうこと。
そして、「あきらめない理由」を発見すること。
プロジェクトの評価を自分ですること。
そのために「地域」という題材がある。
そして「地域」そのものも、高校生と共に学ばないといけない。
もちろん教員やファシリテーターそのものも。
「学ぶ」とは「価値」を問い続けるということ。
そして、価値に気づく瞬間があり、顧客に出会う瞬間がある。
それをキャッチすること。
それこそが「あきらめない理由」になる。
「あきらめない理由」からふたたびプロジェクトが生まれる。
その2プロジェクト目をつくること。できれば授業外に。
そこが「探究」のゴールなのではないかと思う。
「震災復興で高校生が地域のために頑張っています」という
ストーリーに出演させられるのではなく、
自らが、自分たちや地域の誰かを主人公にしたストーリーづくりに参画し、
自らをキャストしたストーリーを始めていくこと。
そこからしか人生というストーリーは始まらないと僕は思う。
Posted by ニシダタクジ at 07:40│Comments(0)
│学び
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