2020年12月06日
このまちの使命はなんだろう?
阿賀黎明高校魅力化プロジェクトの
来春の入寮に向けた中学生のZOOM面接でした。
中学生たちの熱意に、こっちが緊張してきた。
彼らの期待に応えられる町に、学校になれるのか。
お祭りに参加してみたい。
自転車でめぐってみたい。
ピザ窯をつくりたい。
農家さんの手伝いをしてみたい。
町の人を取材して発信したい。
などなど、意欲にあふれてた。
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ。
いちばん、心に刺さったのは、
「阿賀町の良さを阿賀町の人に伝えたい」だった。
「この町には何もない、いいところなんかない」
って地元の子たちが思っているとしたら、
それをまず、伝えたいんだと。
ちょっと泣けた。
「誇り」が必要なんだ。
信は力なり(20.8.8)
http://hero.niiblo.jp/e490965.html
「誇り」がはじまる場所(20.8.11)
http://hero.niiblo.jp/e490977.html
「誇り」がある人には使命感がある。
その使命感は「継いでいく者」だという自覚によるところも大きい。
老舗和菓子屋の跡取りであり、
先祖代々の農家であり、
伝統芸能の継承者であるという自覚が使命感を生む。
「誇り」が必要なんだと思う。
個人にも、学校にも、そしてまちにも。
「誇り」は使命感から生まれる。
「small life with mission」
使命とともにある小さな暮らし
塩見直紀さんの提唱する半農半X
(半分は農的な暮らし、半分は自分の使命を果たすような仕事)
の僕なりの英語訳だ。
その「使命」というのは、極端に言えばフィクション(つくり話)だ。
自分なりの物語を勘違いしているに過ぎない。
でも。
そんなもんだ。
「本当の自分」なんて存在しないように、
「本当の使命」などこの世に存在しない。
「使命感」という勘違いがあるだけだ。
それはきっと文科省の言葉で言えば、
「使命感」⇒「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
になるのだろう。
問いかけることだ
この学校の使命はなんだろう?
このまちの使命はなんだろう?
勘違いすることだ
この学校には果たすべき使命がある。
このまちには果たすべき使命がある。
学校やまちの「使命」を物語化し、その物語に自らを登場させていくこと。
そうやっている中で、自分のX(使命)が見つかっていく。
正確に言えば、「見つかったような気がする」
高校生たちをプロデュースしているつもりで、
実は同時に、学校やまちがプロデュースされていく。
主体と客体の変容は同時に起こるからだ。
あらためて川喜田二郎「伝統と創造」より
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
そんな「場」づくり、「学校」づくり、「まち」づくり。
来春、入学してくる生徒のみんなと考えてみたいんだ。
このまちの使命はなんだろう?

来春の入寮に向けた中学生のZOOM面接でした。
中学生たちの熱意に、こっちが緊張してきた。
彼らの期待に応えられる町に、学校になれるのか。
お祭りに参加してみたい。
自転車でめぐってみたい。
ピザ窯をつくりたい。
農家さんの手伝いをしてみたい。
町の人を取材して発信したい。
などなど、意欲にあふれてた。
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ。
いちばん、心に刺さったのは、
「阿賀町の良さを阿賀町の人に伝えたい」だった。
「この町には何もない、いいところなんかない」
って地元の子たちが思っているとしたら、
それをまず、伝えたいんだと。
ちょっと泣けた。
「誇り」が必要なんだ。
信は力なり(20.8.8)
http://hero.niiblo.jp/e490965.html
「誇り」がはじまる場所(20.8.11)
http://hero.niiblo.jp/e490977.html
「誇り」がある人には使命感がある。
その使命感は「継いでいく者」だという自覚によるところも大きい。
老舗和菓子屋の跡取りであり、
先祖代々の農家であり、
伝統芸能の継承者であるという自覚が使命感を生む。
「誇り」が必要なんだと思う。
個人にも、学校にも、そしてまちにも。
「誇り」は使命感から生まれる。
「small life with mission」
使命とともにある小さな暮らし
塩見直紀さんの提唱する半農半X
(半分は農的な暮らし、半分は自分の使命を果たすような仕事)
の僕なりの英語訳だ。
その「使命」というのは、極端に言えばフィクション(つくり話)だ。
自分なりの物語を勘違いしているに過ぎない。
でも。
そんなもんだ。
「本当の自分」なんて存在しないように、
「本当の使命」などこの世に存在しない。
「使命感」という勘違いがあるだけだ。
それはきっと文科省の言葉で言えば、
「使命感」⇒「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
になるのだろう。
問いかけることだ
この学校の使命はなんだろう?
このまちの使命はなんだろう?
勘違いすることだ
この学校には果たすべき使命がある。
このまちには果たすべき使命がある。
学校やまちの「使命」を物語化し、その物語に自らを登場させていくこと。
そうやっている中で、自分のX(使命)が見つかっていく。
正確に言えば、「見つかったような気がする」
高校生たちをプロデュースしているつもりで、
実は同時に、学校やまちがプロデュースされていく。
主体と客体の変容は同時に起こるからだ。
あらためて川喜田二郎「伝統と創造」より
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
そんな「場」づくり、「学校」づくり、「まち」づくり。
来春、入学してくる生徒のみんなと考えてみたいんだ。
このまちの使命はなんだろう?

Posted by ニシダタクジ at 07:23│Comments(0)
│学び
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