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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月12日

「場」とともにある「わたしたち」

「場」とともにある「わたしたち」
「責任の生成-中動態と当事者研究」(國分功一郎 ・熊谷晋一郎 新曜社)

久しぶりにゾクゾクくる本を読みました。うわあ、うわあ、って。
「やりたいことは何か?」っていう「意志」を問う問いはやっぱおかしいよねって。

まずは、熊谷さんの「当事者研究」のひとつであるASD(自閉スペクトラム症)について。

環境と私との相互作用によって発生したり消えたりする障害をディスアビリティと表現し、皮膚の内側にある障害、環境から独立している障害はインペアメントと表現される。

では、コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提が無い人や、文化的背景の異なる人であれば発生しやすい。

どころが、ASDの診断基準はあたかもインペアメントを表しているものとして世界中で解釈して使われている。

ディスアビリティのインペアメント化が起こっているのではないか?

~~~

そして「意志」について

ギリシアは非常にアジア的であってその文明の根底にあるのは循環する時間と自然という考え方です。それに対し、キリスト教は直線的な時間感覚を生み出しました。始まりと終わりがある時間という考えです。

何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない。にも関わらず、僕らはこの意志という概念を日常的に利用している。だとしたら、これはもう信仰としか言いようがありません。つまり、僕らは意志信仰のなかにいる。

そして意志がキリスト教哲学によって発見された概念であるのならば、僕らはクリスチャンであろうとなかろうと、キリスト教哲学の影響下にあるのだとすら言えるのかもしれません。

意志という概念を使って、因果関係を恣意的に切断してしまっているわけです。

意志という概念が切断の効果をもつことが分かります。そしてそれは本来切断できないものを切断しているわけです。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

~~~

これはヤバいですね。「自分のやりたいことは何か?」と「意志」を問うことでいわゆる「自己責任論」が発生するわけですね。
「中動態の世界」でもありましたが、そもそも他から切り離された「意志」なんて存在するのか?と國分さんは問いかけます。

あとは「意志」と「選択」を混同しないことだと。

あと興味深いキーワードとして「反芻」と「省察」を

「省察」は好奇心を掻き立てる研究対象となるような有意味性をもった出来事として過去を思い出すスタイルです。能動/受動の形式で過去の出来事を思い出すことを「反芻」、中動態の形式で「自分において生起した現象」として過去の出来事を思い出すことを「省察」として考える。

これ、つまり振り返りにおける「場」として見るっていうことだろうなあと思います。
個人戦ではなく「場」を主体としてふりかえること。
ライフチャート(モチベーショングラフ)への違和感もこれで説明できます。

~~~

だからこそ「意思決定支援」ではなく、「欲望形成支援」が必要なのだと。

個人的ではなく集団、意思決定のような切断ではなくて、過去との連続体のなかにある欲望の形成の重要性ということになります。

人間は自分では意思決定を感じる。それはある意味では意志が「うっかり」生成するものだからだと言えるかもしれません。頭のなかでいろいろな演算が行われて、その結果が意識に上ってきます。意識には結果しかわからない。その諸々の結果をうっかりまとめ上げてしまうことで意志を感じられるようになる。

もうひとつ「想像力」について

人間の精神的能力の全ては想像力からきている。想像力の定義は存在していないものを存在させる能力。図式化とは多様なものを大雑把なイメージに当てはめること。このイメージは現実には存在していないものであり、心のなかで作り出さなければならない。だから想像力が図式化を行うと言われるわけです。

~~~

次に「他者」について

自分に見えていないものの存在を信じられるためには他者が必要である。

当事者研究は、傷から自伝的自己を生成するための他者との出会いの条件を探究しなければいけない。

他者というものを、一つの、あるいは大文字の「他者」みたいに思わないほうがよいのでしょう。特定の状況において登場してくる多様な他者を、変数として分析しないといけないと思います。

そして、今の教育が目指すコンピテンシー重視の人物像について次のように説明する。

いかなる変化にもフレキシブルに対応し、いかなる感情も操作し、過去を切断しながら未来志向で生きていく労働者。 
経営者が課すお題を効率よく達成するにはそんな人は重宝するかもしれないけど、そもそも、そんな人と働きたいだろうか?

~~~

最後、あらためて「中動態」について確認するとともに「責任」の話へ

中動態とは、主語が動詞の名指す動作の場所になっているときに用いられる態でした。これに対し、中動態に対立する場合の能動態は、動作が主語の外で完結する際に用いられる。

あらかじめ確固として存在している主体が、客体を支配するというのとは違う契機が中動態に見出されるからです。繰り返しになりますが、中動態の場合、主語は単なる場所だからです。

格変化はだんだんなくなってきたと言いましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。名詞自体を見てもその役割がわからないので、名詞の前に、その役割を表す言葉を置くことにしたわけです。

~~~

このあと、僕の中でのハイライト、「場」とは何だろう?「場に溶ける」とは?を説明する上で大切な「主体」「客体」をギリシア語で「使う」を意味するクレースタイを持ち出して、説明します。

ここだけ引用させてください。

~~~ここから一部引用

クレースタイという動詞には中動態しかありません。ギリシア語は直接目的語を表すために名刺を対格というかたちに格変化させますが、クレースタイは対格をとらないのです。「格」というのは名詞の役割を表すものです。ギリシア語やラテン語では名詞が縦横無尽に変化します。格変化はだんだんなくなってきましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。

クレースタイが目的語を対格でとらないということは、「使う」という言葉がただ「・・・を使う」を意味するわけではないことを意味します。私という言葉=主体があって、物という目的語=客体があって、前者が後者を使うというのとは異なる意味が「使う」という概念には秘められていることを、このクレースタイという動詞は示していることになります。

「誰が何ものかを使用するという近代的な考えたのうちにかくもはっきりと刻印されている主体(主語)と客体(目的語)の関係がこのギリシア語の動詞の意味を捕まえるには不適切なのである。」(アガンペン「身体の使用」)

僕らは「使用」を「支配」の意味で考えていると思います。ペンを使うとき、ペンを支配して、みずからの思いのままにそれを使っている、と。しかし自転車や車いすの例からわかるように、むしろ使うためには、使う主体にならなければならない。クレースタイを通じて主体が出てくる、というか、クレースタイを通じて主体と客体の一つの組み合わさった何か、自己のようなものが構成されると考えねばならないのではないか。そしてクレースタイが中動態にしか活用しないのであれば、それはまさしく主語が自己の生成する場所であることを示しているのではないか。

~~~

このあと、いよいよ「責任」の話に入っていくわけですが、それは本書をお読みください。
NHK100分で名著の「カールマルクス・資本論」を読んで考えていた「自由」の話にも通じるなあと。

「意志という神話」を信じ込まされ、労働者となった私たち。そこには「消費者としての自由」があった。

強い「意志」によって自分と過去とを切断し、描いた「未来」に向かって力強く進んでいく存在。

しかしそれはかつて尾崎豊が「卒業」で語ったような「仕組まれた自由」なのかもしれない。

私たちは切り離された。「共同体」からも、そして「過去」からも。
それをうまく切り離せない人が「生きづらさ」を抱えているのかもしれない。

だからこそ「場」を主体にして、「学び」を再構築できないだろうか?
「学びの場」に自らを溶け出していくことで、「切り離されていない自己」を構築できないか、と。
もちろんそれは、自らを「多層化」したうちのひとつではあるのだけど。

中動態の世界において、動詞が示す変化は自分の中の「場」で起こる。
そしてそれは相手を変化させていると同時に自らを変化させる。

「探究的な学びは自己の変容を前提としている」と前に書いたけど
http://hero.niiblo.jp/e491217.html
それは実はギリシア時代には当たり前のことだったのだ。

「場」とともにある「私たち」。

そんな感覚が持てるような場(やプロジェクト)をつくっていくこと。

それが、多くの若者が、いや私たちを含めて直面している「アイデンティティ危機」に対する僕なりのアプローチなのかしれないと感じています。ステキな本をありがとうございました。

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Posted by ニシダタクジ at 07:52│Comments(0)学び
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