2023年07月10日
「機会」をともにつくる
「学校じゃない教育への関わり方」高校魅力化を題材にした初開催の合宿でした。
メインは1日目夜のトークセッション。
「ともにつくる」というコンセプトについて改めて考える機会となった。
トークセッションのテーマは、「教育」じゃない言葉で、いまやっていることを表現できないか。
まずは僕の昨日の朝のふりかえりツイート
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「ともにつくる」の「つくる」ものが具体的なプロダクトや課題の解決などではなくて「機会」そのもの。「機会」は「反応」があって初めて「機会」となるし、「待つ」ことそのものも機会であるのかもしれない。だから何もつくらなくていいし、課題も解決しなくてもいい。ただ、機会をともにしたい
もしかしたらそれが「場」の役割なのかもしれない。「場」(わたしたち)を主語にして演劇的に(一回性の高い)関係性を「ともにつくる」(構築する)
「ともにつくる」っていうのはBe=あり方なのかも。
学校だけではなく、公営塾、寮、風舟、そしてまちに違った立場で関わる大人がいる。そのひとつひとつの「ともにつくる」関係性が生徒の立ち位置を定めていくのかもしれない。
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「機会」をともにつくること。これが阿賀の考える教育(高校)魅力化であるのかもしれない。
ではなぜそれが必要なのか。
参加者のひとり、現役の先生のOさんの言葉に衝撃を受けた。
学校には「機会」がないのだ、と。
「機会」とは、
・選択すること
・判断すること
・やってみること
そして
・待つこと
それらを振り返り、発見と変容を繰り返すこと。それこそが「学び」ではないか。
しかし、学校には「機会」は無く、ただただ「教育目標」を目指し、カリキュラムに従って、授業が展開されていく。そこに「選択」も「判断」も「やってみる」も、それを保留する「待つ」もない。
いったい何に追われ、僕たちは「まなんで」いるのだろうか。答えがひとつではない時代に、なぜ時間を区切られ、単位時間内の成果を求められるのだろうか。
これは「総合的な探究の時間」の認識の差にもつながっていく。
隣県から参加した教育コーディネーターのKさんが中堅の先生から言われた一言。
「探究?、あんなのは遊んでいるだけでしょ?」
まなびとはいったいなんだろうか。目標に向かって努力することが学びなのだろうか。
千晃さんが「遊び」が「学び」になるには?と問いを投げかけていたけど、
遊び=予測不可能性と機会と発見と変容
学び=目標(予測)と達成とそれに伴う苦労
と定義するとしたら、そういう意味では「探究」って遊びに属しているかも。探究を「遊んでるだけでしょ」っていうのは、学びの定義が上のように、目標と達成とそれに伴う苦労となっているからではないか。
僕はそれこそが学校(学級/授業)のつまらなさの最大の要因だと思う。
予測可能な目標に向かって、直線的に進んでいく授業。しかもその目標に始める前に合意しているわけではなく、すでに所与の条件としてそこにあった目標に最適化させられる、という構造。
そこに「楽しさ」はあるだろうか。しかもさらにそのベースに、「存在の承認」の問題がある。
「存在の承認」がなければ、「成果(評価)」を求めてしまい、「待つ」ことができない。個人が個人として浮遊している世の中における承認の存在の仕組み構築が最大のポイントなのではないか。それを中学生・高校生の時にやれるかどうか、それが「地域で探究」以前の出発点になるだろうな。
それは先生自身にも当てはまる。先生自身が「まなび」を達成と成長とそれに伴う苦労モデルで捉えているとすると、先生自身が「機会」から学ぶという予測不可能性の価値を体感することが難しい。
目的や目標を前提とした学校というシステムは「やってみる」「やってみた」っていういわゆる「試行」を否定してきたのかもしれない。「試行しない」ことは「思考しない」ことにつながっていて、それは自らの意志をもって「志向する」ことを妨げてきた。そのシステムは「人を喜ばせよう」という本能によって、わかりやすい(評価されやすい)目的・目標を設定することにつながり、目標を設定した瞬間に思考を停止して目標に向かう、ということが起こってしまう。
はたしてそれで人は幸せになったのだろうか。
「~~しようとして〇〇する」と「気づいたら〇〇していた」と「誘われたから〇〇やってみた」とか。その〇〇は全部試行だし、機会だし、遊びだし、エンターテイメントだと思う。そんなことが生まれる空間と関係性をつくっていくこと。それが「魅力化」の出発点なのかもしれない。「機会を楽しむ」こと。
機会をともにつくる。最後の振り返りで、参加者から「協力隊の個人個人に依存せずにこれを継続的にしていく取り組みにするには?」という問いかけがあった。
属人的な仕組みは人が変わると継続できない。だからといって、誰でもできるようにマニュアル化した瞬間に、失われるものがある。
「場」の持続性、継続性というのは、属人的にならないことではなくて、「個」ではなくて「場」を主語にして、「場」としての在り方を言語化し、それをアップデートし続けることなのではないか。属人的ではない(個性が生きない)場を作り上げた瞬間に、場の魅力は急速に失われていく。
そういう意味において、「いま、この場所で、このメンバーでしか生み出せない」というシーンを積み重ねていくこと、そしてそれを振り返り、思考し続けること。志向し、試行し、思考するの繰り返し。場にも魔法をかける編集が必要なんだな。
そして、毎年が1年目である場をつくっていくこと。
場っていうのは、個人の身体性、空間(環境)と、それらの関係性というように構成要素を分けられるだろう。
空間(環境)は大きくは変わらないかもしれないけど、人と関係性が変わっていく。
そんな人たちと一緒に空間を分けあいながら、「機会」をともにつくっていくこと。
高校魅力化も、寮も、本屋さんも、きっとそういう感じで「ともにつくって」いきたいなと。
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