2021年12月04日
身体としてのヒトと頭脳としてのヒト
仙台のNPO法人ハーベストの山崎さんと勝手にビッグ対談してました。
https://www.heartbest.net/
ラジオ収録したかったな。
オンラインツルハシに今度出てもらいましょう。
~~~以下メモ
トマス・アクィナスと中動態の話から。
トマス・アクィナスについて
https://www.aiko.ed.jp/contents/chuta/?p=24589
中動態について
https://tsukubajinbun.wordpress.com/2018/07/09/
これ、まさに今直面している
探究の授業とかプロジェクト設計における
「自分」と「社会」の接点の話だなあと。
有意義⇔意義なしという軸=社会(理性)の軸と
快⇔不快という軸=自分(感情)の軸
それぞれの「プロジェクト」は、社会にとって、あるいはひとりひとりにとって
意義(理性)軸と快(感性)軸のグラデーションの中にある。
よく言われるように、
他人が苦手、やりたくない、自分は得意、苦にならないことを仕事にしろって
いうのは、まさにそれ。快(感情)軸が自分にとってプラスなのだ。
探究界隈でよく言われる「課題解決」っていうのは
完全に社会=意義=理性軸で考えていて、
課題解決をファーストにしてしまう違和感はそこにある。
しかしながら、自分=快=感情軸での振り返りだけでは、前に進めない。
マトリクスとして見れば、
縦軸を意義として、上に行くほど有意義であるとする
横軸を快として、右へ行くほど快であるとする
この右上を探していくのがキャリア形成のプロセスである。
そのためにはまず、自分の快軸を認識する必要がある。
だから感情を振り返る必要があるんだ。
「課題解決」(世間一般の意義)ではなく、
自分にとっての快(幸せ)を定義しなければならない。
その方法としてリベラルアーツ的な学びがある。
その「学び」が難しいのは、見た目上、変化しないからではないか。
自分にとっての幸福を定義することは、他者からは見えない。(感じることはできる気がする)
「個別最適化」は評価とは相いれない。
そもそも「評価軸」は、瞬間瞬間に陳腐化(時代遅れ)になっているのではないのか。
必要なのは他者からの評価ではなく、その瞬間、価値を仮定する(実感する)ことなのではないか。
だから、周りの大人たちがやるべきは
「機会」の提供であり、問われるのは機会を保証したか?ということだ。
その機会とは、中動態的に場と一体化して対話をしていくこと。
今月どうだった?来月どうする?の会を大人も高校生もやる。
行動の動機=季節性=委ねる=中動態的
プロセスとして生きていくこと
まなび⇒いとなみ=人生をどうやってつくっていくんだ?=哲学=幸せをどう定義するか?
「セクシープロジェクトで差をつけろ」(トム・ピーターズ)
シビれる⇔クソッたれを毎週3つずつ書く
小山薫堂⇒大学生に名刺を50枚渡す=カッコイイ人に会ったら交換する⇒レポート)
「観察」⇒「対話」⇒「メタ認知」⇒感性(愛)=中動態=身体論
「ふりかえりからのトークフォークダンス」⇒毎月やってもいいかも。
焚き火=人間という現象=一瞬たりとも同じではない
お風呂=身体性の解放
本=意味=インプット=機会
焚火⇒風呂⇒本
雲海を見に行く、とかの身体性の解放
~~~以上メモ
なぜ僕はふたたび本屋になろうとしているのか、少し分かった気がした。
機会を提供すること。
達成と成長ではなく、発見と変容。
それは、有意義性という縦軸と、
快⇔不快という横軸の交点をつくること。
横軸への振れ幅を「リベラルアーツ」と言い、縦軸をより上に行くことを「スキルアップ」と言う。
「キャリア形成」とは、自分が追いかけたい縦軸を見つけることだし、それを実現するのは決してひとりではなくて、チームや場の持ち方が大切になること。
身体としてのヒトと頭脳としてのヒトの交点をつくる。
いや、点じゃなくて、ひたすらにグラデーションなんだけどね。
その区分のあいまいな領域に、僕は行きたいのかもしれないなあと。
締めくくりは「ブルーハーツ 街」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=WPjrBpmeeSE
いつか会えるよ
同じ涙をこらえきれぬ友達と
きっと会えるよ
右手と左手で何ができるだろう。
命のある限り忘れてはいけない。
今しか僕にしか出来ないことがある
~~~
いいですね。
きっと会えるし、
今しか僕にしか、僕たちでしか、この場所でしか、できないことがあるんだよ。
そんな「まなび」という営みができたらいいな、と思いました。
山崎さん、シビれる夜をありがとうございました。
https://www.heartbest.net/
ラジオ収録したかったな。
オンラインツルハシに今度出てもらいましょう。
~~~以下メモ
トマス・アクィナスと中動態の話から。
トマス・アクィナスについて
https://www.aiko.ed.jp/contents/chuta/?p=24589
中動態について
https://tsukubajinbun.wordpress.com/2018/07/09/
これ、まさに今直面している
探究の授業とかプロジェクト設計における
「自分」と「社会」の接点の話だなあと。
有意義⇔意義なしという軸=社会(理性)の軸と
快⇔不快という軸=自分(感情)の軸
それぞれの「プロジェクト」は、社会にとって、あるいはひとりひとりにとって
意義(理性)軸と快(感性)軸のグラデーションの中にある。
よく言われるように、
他人が苦手、やりたくない、自分は得意、苦にならないことを仕事にしろって
いうのは、まさにそれ。快(感情)軸が自分にとってプラスなのだ。
探究界隈でよく言われる「課題解決」っていうのは
完全に社会=意義=理性軸で考えていて、
課題解決をファーストにしてしまう違和感はそこにある。
しかしながら、自分=快=感情軸での振り返りだけでは、前に進めない。
マトリクスとして見れば、
縦軸を意義として、上に行くほど有意義であるとする
横軸を快として、右へ行くほど快であるとする
この右上を探していくのがキャリア形成のプロセスである。
そのためにはまず、自分の快軸を認識する必要がある。
だから感情を振り返る必要があるんだ。
「課題解決」(世間一般の意義)ではなく、
自分にとっての快(幸せ)を定義しなければならない。
その方法としてリベラルアーツ的な学びがある。
その「学び」が難しいのは、見た目上、変化しないからではないか。
自分にとっての幸福を定義することは、他者からは見えない。(感じることはできる気がする)
「個別最適化」は評価とは相いれない。
そもそも「評価軸」は、瞬間瞬間に陳腐化(時代遅れ)になっているのではないのか。
必要なのは他者からの評価ではなく、その瞬間、価値を仮定する(実感する)ことなのではないか。
だから、周りの大人たちがやるべきは
「機会」の提供であり、問われるのは機会を保証したか?ということだ。
その機会とは、中動態的に場と一体化して対話をしていくこと。
今月どうだった?来月どうする?の会を大人も高校生もやる。
行動の動機=季節性=委ねる=中動態的
プロセスとして生きていくこと
まなび⇒いとなみ=人生をどうやってつくっていくんだ?=哲学=幸せをどう定義するか?
「セクシープロジェクトで差をつけろ」(トム・ピーターズ)
シビれる⇔クソッたれを毎週3つずつ書く
小山薫堂⇒大学生に名刺を50枚渡す=カッコイイ人に会ったら交換する⇒レポート)
「観察」⇒「対話」⇒「メタ認知」⇒感性(愛)=中動態=身体論
「ふりかえりからのトークフォークダンス」⇒毎月やってもいいかも。
焚き火=人間という現象=一瞬たりとも同じではない
お風呂=身体性の解放
本=意味=インプット=機会
焚火⇒風呂⇒本
雲海を見に行く、とかの身体性の解放
~~~以上メモ
なぜ僕はふたたび本屋になろうとしているのか、少し分かった気がした。
機会を提供すること。
達成と成長ではなく、発見と変容。
それは、有意義性という縦軸と、
快⇔不快という横軸の交点をつくること。
横軸への振れ幅を「リベラルアーツ」と言い、縦軸をより上に行くことを「スキルアップ」と言う。
「キャリア形成」とは、自分が追いかけたい縦軸を見つけることだし、それを実現するのは決してひとりではなくて、チームや場の持ち方が大切になること。
身体としてのヒトと頭脳としてのヒトの交点をつくる。
いや、点じゃなくて、ひたすらにグラデーションなんだけどね。
その区分のあいまいな領域に、僕は行きたいのかもしれないなあと。
締めくくりは「ブルーハーツ 街」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=WPjrBpmeeSE
いつか会えるよ
同じ涙をこらえきれぬ友達と
きっと会えるよ
右手と左手で何ができるだろう。
命のある限り忘れてはいけない。
今しか僕にしか出来ないことがある
~~~
いいですね。
きっと会えるし、
今しか僕にしか、僕たちでしか、この場所でしか、できないことがあるんだよ。
そんな「まなび」という営みができたらいいな、と思いました。
山崎さん、シビれる夜をありがとうございました。