2017年07月13日
盛岡の「楽園」

「書店員X」(長江貴士 中公新書ラクレ)
大ヒットした「文庫X」を
生み出したさわや書店フェザン店の
長江さんの本。
文庫Xっていうのは
「本を読むとは何か?」
っていう根源的な問いを与えてくれる1冊
だったんだな、と。
「未知のもの」
とどう出合い、どう生かすか。
そんなことが書いてある。
これ、よかったなあ。
この本のサブタイトルは
「常識」に殺されない生き方。
私たちがいかに
「先入観」を脱していくか、
が書いてある。
~~~以下メモ
共感を求めれば求めるほど、
「今の自分」を超えたものに出合う機会が狭まる、ということでもあるのだ。
すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。
そして国語教科書の詩の単元は、この権利をわたしからうばうものだった。
「わからない状態のたいせつさ」という考えは、
このころに芽ばえ、いつのまにかわたしの生涯のテーマになったように思う。
「わからない状態」で出合うからこそ、
「自分にとっての魅力」に気づくことができるのだ。
そんなふうに世の中のいろんなものと出合うことで、
僕たちは「今の自分」を超え、「先入観」を乗り越えることができる。
「未知のもの」に「わからない状態」で出合う。
情報が氾濫している世の中では
ますます難しくなってしまったこんなやり方が、
僕たちを少しずつ押し広げていくのだ。
本はそんなふうに、ネットと比べて遥かに簡単に
「未知のもの」と出合う可能性を与えてくれる存在だ。
書店の存在意義というのは、
「読者(お客さん)が本を選ぶ力を高めることにある」と思っているんです。
「未知のもの」との出合いすべてに「失敗」はない。
「未知のもの」との出合いやすさを売り場づくりのベースにしながら、
その中にどれだけ探しやすさという要素を組み込むことができるのか。
今書店に求められている発想はこういうものなのではないかと思う。
~~~ここまで引用
そうそう。
本屋の役割ってきっと、そういうことだと。
文庫本Xっていうのは
長江さんからの、強烈な、
本とは何か?
本屋とは何か?
っていう問いなんだなと。
そして、この本の僕的なクライマックスは、
証言3:さわや書店フェザン店の田口店長のコラムだ
「北に楽園があるよ。来てみない?」
そう言って田口さんは、
川崎にいた長江さんを盛岡に誘った。
3年越しのアプローチ。
すげーなって。
☆☆☆
「『文庫X』についてどう思われますか?」
同じ質問を何度もされた。
「たまたまです」といつも僕は答えている。
その間、彼が本の魅力を伝えようとした
熱意と努力の積み重ねの日々を傍らで見てきたから、
そう断言できる。「文庫X」はあくまでその一部なのだ。
★★★
ホントはこの後の「さわや書店という場とは?」の部分を書きたいのだけど、
文庫Xにならって、ここは伏せておくことにする。
楽園は南の国にあるのではなく、
日本の岩手、盛岡にたしかにあった。
くやしい。
やっぱり、くやしい。
「本屋」はどこまで「本屋」に、
そして「楽園」になれるのか?
そんな大いなる問いをもらった1冊となりました。
田口店長の
「まちの本屋」とも合わせてどうぞ。
「ひとりひとりに使命があるように、本屋にも使命がある。」
http://hero.niiblo.jp/e475548.html
(15.12.21)
Posted by ニシダタクジ at 07:52│Comments(0)
│本
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