2020年01月21日
「地域の良さを伝えていないから子どもたちは出て行ってしまう」は本当か?

コミュニティスクール立ち上げに向け準備委員会開催。
昨日の議論メモ。
リアルな声とその対応について
・「少人数なのできめ細やかな指導ができる」はメリットではない。手をかけすぎて自立できないのではないか不安
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たしかに一理ある。
きめ細やかな指導というより、探究などでのフォローができる、あるいは協働探究者としての先生を見せていくこと。
・小中学校の狭い人間関係が継続されるから外の高校へやりたい。
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これもわかる。小中学校の狭い人間関係から脱したい。僕だってそうだった。
これには「地域」との人間関係がたくさんできます。
たとえば、FAQで、
「Q:中学校時代の人間関係が維持され、狭い世界を生きることになるのでは?」
「A:本校は地域に開かれており、地域の人と協働しながらプロジェクトを作っていくことで、教室以外で多世代との人間関係を構築することが可能です。」
って書くとか。同世代だけの人間関係でいいのか?っていう問いが必要。
・小学校の「総合的学習」ではかなり時間をとってやっているが中学校で切れてしまう。
⇒
高校1年次に同じ題材で「探究プロセス」を回すことができないか。
「未来フォーラム」で発表した阿賀町の小学生の「総合的学習」の発表は、
地域資源を最大限に生かし、地域住民を巻き込み、雪椿でお茶を作ったりしていた。
あのプロジェクトの延長上に高校でも何かできないだろうか。
そんなことを考えた。
どんな生徒を育てたいか?
については、まだこれから議論していくところであるが、みなさんのを聞いていて思ったこと。
「地域の良さを知らないから外へ出ていく。だから、小中高のときに、地域の良さを伝えなければいけない。」
っていうのは、もっともらしいけども、実際は、その視点で行けば、「もっと良いもの」が街中や東京にあるから(ありそうな気がするから)、やっぱり出て行ってしまうと思う。
「若者が残らないのは地域に雇用がないからだ」
っていうのも、同様にもっともらしいけれども、実際08年にDeNAが新潟市にカスタマーセンターを作って雇用創出したけど、それを理由に東京に出ていくのを辞めた人っているのだろうか。
しかもそれって、仕事=雇われることという「サラリーマンシップ」を前提にしているので、そういうマインドの人ではなくて、地域の当事者となり自ら創っていけるような人材に残ってほしいのではないか?
「ナリワイをつくる」(伊藤広志 東京書籍)に書いてあるけど、地方にはそもそも「雇われる」仕事はあまり存在せずに、ほとんどの人が(下級武士)を含めて季節ごとに様々な仕事をする百姓だった。役人か、上級武士か、豪商か、そのあたりが専業として仕事をしていた。
だから育てていくべきは、次の時代を生き抜いていく百姓マインドを持った若者なのではないか。
自ら価値を決め、自らの人生を創っていく人。そのプロセスの中で他者と協働しなければつくれない仕事やコミュニティがあるから、そこを協働していける人。そんな人の集まりに、地域の未来があると思う。
問うべきは
「どうすれば残ってくれるか?」
じゃなくて
「どんな人に残ってほしいか?」
ではないか。
関係人口も同じだ。
「どうやったら関係人口が増えるか?」
っていう問いの前に、
「その地域にはどんな関係人口が必要なのか?」
「どんな人に関係人口になってもらいたいのか?」
っていうのを決めないと。
そもそも「良さを伝える」って不可能じゃないか。
価値観そのものが揺らいでいるのだから。
良さは本人によって、見出してもらわないことには、「良さ」とはならない。
もっと言えば、「良さ」っていう概念がそもそも比較するということ。
だから、外に出てみないと地元の良さがわからないっていうのもその通りで。
そういう意味では、小中学生は比較対象がないのだから「良さを伝える」っていうのは原理的に不可能なのではないか。
こんな話の中で、育てたい人材像の僕の現時点の案。
要素はこんな感じかな、と。
激動する世の中においても、目の前にある地域資源や周りの人と協働する中で価値を自ら定め、地域と自らの未来を創っていくことができる探究型思考・行動ができる人材
そんな人材と一緒に地域の未来をつくりたいし、自分自身もそんな人材になりたい。
そんな風に共感できる目標がつくれたらいいなあと思う。
Posted by ニシダタクジ at 08:40│Comments(0)
│日記
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