2021年01月11日
「場の豊かさ」をベースに「場のチカラ」を発揮できるチームをつくる
2020年8月
7月末の探究学習コミュニティ(オンライン勉強会)から。
大船渡高校の梨子田先生。
まずは「問い」について
・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー
「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK
問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ
「新しいワクワクがもらえる」目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」
「テーマ」ではなく「問い」:肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」:磨くには接点が必要
「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを体得している生徒を待っているのでは?
1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える
1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体。現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。
かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。
The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.
凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す
ああ。火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。
そして問いを磨いていくこと。リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。
そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。
~~~
さらに2週連続で五ヶ瀬中等の上水先生
http://hero.niiblo.jp/e490965.html
PDCAからAARへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り
3つの感:
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)
★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ、社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。
上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。
「信じることです」
生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。
「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。
いまこそ。
信じること。
そっからだ。
なんだろうね、この心地よい敗北感は。圧倒的な敗北がここにありました。
2020年8月7日。世界の広さを知った日。
上水先生のメッセージは五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。で締められた。
「だからこそ」をつくっていこうと。他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。パートナーのみなさん、よろしくお願いします!
~~~
「現代版スクールウォーズ」それが探究なのだと。俄然モチベーションが上がってきたなと。
そしてその週末
「NIIGATAマイプロジェクトLABO」キックオフ
http://hero.niiblo.jp/e490977.html
ゲストだった大船渡高校でマイプロアワードをグランプリだった船野さん。
彼女の話を聞いていて、探究サイクルとは、
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思った。
僕のテーマは、「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」
「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。
「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト
それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。
出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。
現代版スクールウォーズだとあらためて思った。伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」
「誇り」が必要なのだと思う。それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。
現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。
そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。
~~~
いいですね。アツくなってます。スクールウォーズなんですね。
そして8月25日。前の週末の学校見学&まなび体験会を開催し、他県から2名の男子生徒と家族が見に来てくれました。
その1週間は大学生との対話の機会があったり、取材型インターン「ひきだし」の事前研修があったり、いろいろ考えました。
ダイジェストでお送りします。
企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
「恋愛」上手になるには?と聞けば、「経験値を積んでいく」ことだとみんな言いますよね?
どんな恋愛をしたいか?
理想的な恋愛の始まり方は?
恋愛が終わるときは?
と聞かれたら、就職活動そのものが変わらざるを得ない。
取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)
「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい
仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。
~~~ここまで「就活」について
ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。
「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする
~~~ここまで「ブレスト」について
「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。
そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。
12歳時点で、存在の承認(親和的承認)が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。
~~~ここまで「承認」について
最後にまとめ。
僕がアプローチしてきた「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」問題の原因と課題とその解決方法。(私のマイプロ)
その出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること、そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。その時点で「親和的承認(存在の承認)」が満たされていないにも関わらず。
人はみな「承認されたい」。しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。自らが感じるしかない。
「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。
そのころにはもう「評価」中毒になっている。
地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。
「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」
しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を評価してくれる「誰か」はいない。
そして就職活動。「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。
ところが、何をやったらいいのかわからない。どうすれば評価されるのか、わからない。自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。
仕方なく、資格やスキルを身につける。しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。
そこで行き詰まる。
がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。
「量的に測れない。」これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。でも、自分は量的なアプローチしか知らない。「就活の不安」の根本はそこにあるのかもしれない。
時計の針を巻き戻す。中学入学時点まで。
本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。しかもその「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。
本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」というメッセージを伝え続けること。
しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、家庭や地域にその役割を負わせることはほぼ不可能となっている。
だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。
その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。
思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。
そうやって、見つける、発見する。この「場」でしか生まれないものを生み出す。
それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。
だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。
見つけ合う場を、そしてはじまる場を。
~~~
いやあ、渾身のブログですね。アツいです。2011年の本屋開業、もっと言えば2006年から大学生インターン事業開始15年がひとつに繋がってくるような感覚があります。
そして、ひきだし研修2週目。
引き出しの実施可否を考える上で、いちばんポイントになったのは、
「オンラインでなければたどり着けない場所があるのでは?」という仮説の検証だった。
チューニング=感性の共有
オンラインマジカルバナナの「これ、目的に向かっていないんじゃないか?」っていう面白さ。
「印象に残ったこと」をチャット欄に同時に書き込むことで、違う回路が開く面白さ。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から少し異なるのだなあと思った。
「場」をオンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。
一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。
ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。仕事の打ち合わせの人もいるだろう。そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。
おそらく、「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。
「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。
~~~
ここまで。いや、あらためて読んでみると、ちゃんと考えながらやっているなあと。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」のベクトル性の違い。
「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。
これってさ、内田樹さんの言う、「理解と共感に基づかない協働」なのではないか?
理解と共感できないからこそ、突破できるベクトルを生むことが可能なのではないか。
そんなことを思った2020年8月ふりかえりでした。
7月末の探究学習コミュニティ(オンライン勉強会)から。
大船渡高校の梨子田先生。
まずは「問い」について
・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー
「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK
問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ
「新しいワクワクがもらえる」目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」
「テーマ」ではなく「問い」:肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」:磨くには接点が必要
「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを体得している生徒を待っているのでは?
1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える
1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体。現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。
かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。
The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.
凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す
ああ。火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。
そして問いを磨いていくこと。リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。
そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。
~~~
さらに2週連続で五ヶ瀬中等の上水先生
http://hero.niiblo.jp/e490965.html
PDCAからAARへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り
3つの感:
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)
★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ、社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。
上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。
「信じることです」
生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。
「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。
いまこそ。
信じること。
そっからだ。
なんだろうね、この心地よい敗北感は。圧倒的な敗北がここにありました。
2020年8月7日。世界の広さを知った日。
上水先生のメッセージは五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。で締められた。
「だからこそ」をつくっていこうと。他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。パートナーのみなさん、よろしくお願いします!
~~~
「現代版スクールウォーズ」それが探究なのだと。俄然モチベーションが上がってきたなと。
そしてその週末
「NIIGATAマイプロジェクトLABO」キックオフ
http://hero.niiblo.jp/e490977.html
ゲストだった大船渡高校でマイプロアワードをグランプリだった船野さん。
彼女の話を聞いていて、探究サイクルとは、
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思った。
僕のテーマは、「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」
「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。
「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト
それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。
出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。
現代版スクールウォーズだとあらためて思った。伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」
「誇り」が必要なのだと思う。それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。
現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。
そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。
~~~
いいですね。アツくなってます。スクールウォーズなんですね。
そして8月25日。前の週末の学校見学&まなび体験会を開催し、他県から2名の男子生徒と家族が見に来てくれました。
その1週間は大学生との対話の機会があったり、取材型インターン「ひきだし」の事前研修があったり、いろいろ考えました。
ダイジェストでお送りします。
企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
「恋愛」上手になるには?と聞けば、「経験値を積んでいく」ことだとみんな言いますよね?
どんな恋愛をしたいか?
理想的な恋愛の始まり方は?
恋愛が終わるときは?
と聞かれたら、就職活動そのものが変わらざるを得ない。
取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)
「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい
仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。
~~~ここまで「就活」について
ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。
「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする
~~~ここまで「ブレスト」について
「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。
そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。
12歳時点で、存在の承認(親和的承認)が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。
~~~ここまで「承認」について
最後にまとめ。
僕がアプローチしてきた「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」問題の原因と課題とその解決方法。(私のマイプロ)
その出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること、そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。その時点で「親和的承認(存在の承認)」が満たされていないにも関わらず。
人はみな「承認されたい」。しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。自らが感じるしかない。
「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。
そのころにはもう「評価」中毒になっている。
地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。
「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」
しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を評価してくれる「誰か」はいない。
そして就職活動。「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。
ところが、何をやったらいいのかわからない。どうすれば評価されるのか、わからない。自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。
仕方なく、資格やスキルを身につける。しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。
そこで行き詰まる。
がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。
「量的に測れない。」これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。でも、自分は量的なアプローチしか知らない。「就活の不安」の根本はそこにあるのかもしれない。
時計の針を巻き戻す。中学入学時点まで。
本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。しかもその「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。
本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」というメッセージを伝え続けること。
しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、家庭や地域にその役割を負わせることはほぼ不可能となっている。
だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。
その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。
思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。
そうやって、見つける、発見する。この「場」でしか生まれないものを生み出す。
それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。
だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。
見つけ合う場を、そしてはじまる場を。
~~~
いやあ、渾身のブログですね。アツいです。2011年の本屋開業、もっと言えば2006年から大学生インターン事業開始15年がひとつに繋がってくるような感覚があります。
そして、ひきだし研修2週目。
引き出しの実施可否を考える上で、いちばんポイントになったのは、
「オンラインでなければたどり着けない場所があるのでは?」という仮説の検証だった。
チューニング=感性の共有
オンラインマジカルバナナの「これ、目的に向かっていないんじゃないか?」っていう面白さ。
「印象に残ったこと」をチャット欄に同時に書き込むことで、違う回路が開く面白さ。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から少し異なるのだなあと思った。
「場」をオンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。
一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。
ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。仕事の打ち合わせの人もいるだろう。そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。
おそらく、「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。
「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。
~~~
ここまで。いや、あらためて読んでみると、ちゃんと考えながらやっているなあと。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」のベクトル性の違い。
「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。
これってさ、内田樹さんの言う、「理解と共感に基づかない協働」なのではないか?
理解と共感できないからこそ、突破できるベクトルを生むことが可能なのではないか。
そんなことを思った2020年8月ふりかえりでした。
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