2021年08月17日
「計測可能である」という前提を疑う

「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)
久しぶりに内田節を聞きたくなって某古本屋さんで購入。
第3章 ウチダ式教育再生論 から
元原稿は、京都精華大学の精華人文文庫「きみの生きづらさと向き合うために」
なので、主に大学生向けに書かれているのだと思う。
「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
とタイトルされた文章が昨日の「なぜ本屋なのか?図書館なのか?」
につながっていると思ったので書きます。
~~~ここから引用
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に対応できずに硬直化している。金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと放り出されるしかないのに、若い人たち、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。むしろ、外側で大きな変化が起きている分だけ、恐怖と不安で、硬直化しているように見えます。
激動期に対応して、生き残るためには、集団の一人一人が持っている多様な能力や資質を活かして、「強い」チームを形成しなければいけないのですが、日本の学校教育は単一の「ものさし」をあてがって子どもたちを格付けして、スコアの高い者には報酬を与え、低い者には処罰を与えるということしかしていない。
多様な才能や資質を開花させるためにはほとんど何もしないで、ただ「みんなができることを、他の人よりうまくできる」競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、それを生き延びる知恵と力を育てるには何の役にも立ちません。
~~~
いやあ、もう、ホントそれ。
ひれ伏すしかない。
そして「コミュニケーション」についても大学での経験から「コミュ障」だという大学生に出会い、次のようにコミュニケーションを定義し直す。
~~~
コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?
~~~
内田さんによれば、極端な同調的コミュニケーションも、自己責任論を内面化し、十分な評価を得られないときに自分の能力や努力にしてしまう、格付け志向については、若者の責任ではなく、「金魚鉢の中の硬直化したルール」を適用する社会がそうさせている、と言います。
そして、人文学の意味を語ります。
~~~
自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。
人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。考古学や歴史学なら何千年、何万年前のことを扱うし、民俗学や地域研究では、はるか遠い国の文化を学びます。文学もそうです。遠い時代の、遠い国の、人種や信仰や性別や年齢が違う人の中に想像的に入り込んでいって、その人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。
学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている「金魚鉢」のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢を含めた世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。
この混乱期を生き延びていくためには、できるだけ視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の情勢を俯瞰することが必要です。
~~~
これ、人文学を「読書」や「地域探究」に置き換えても同じだろうなと。ヘリコプター(ドローンでもいいけど)に乗って、世界を(歴史的地理的民俗学的視点からも)俯瞰して見る方法の1つとして読書や地域探究はあるんだと。
さらに(僕が少し編集しましたが)、「実学」についても以下のようにバッサリ行きます。
~~~
政治学や経済学や法学といった「実学」というのは、既存のシステムが正常に作用している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合にはきわめて効率がよい。それに対して、自分が存在し、生きているこの社会の成り立ちや学問領域そのものの意味を問いかけていく人文学は、いわば「乱世の学問」です。
~~~
そうなんだよね。だから歴史だったり哲学だったりが必要なのだよね。
金魚鉢そのものがもうすぐ割れちゃうかもしれないんだから。
そしてこの文は、「自分が機嫌よくいられる場所」を探そう、と締めくくられます。
~~~
武道的な意味での「正しい場所」とは「どこにでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のことだからです。
「正しい位置」というのは、空間的に決まった座標のことではなくて、その時々において最も自由度の高いポジションを選択できる「開放度」のことだからです。
これと同じで、生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
~~~
そうなんだよね。そういう「場」が必要なんだよね。ひとりひとりにとってその「場」が違うんだよね。
坂口恭平さん的に言えば「学校社会」のルールとは異なる無数の「放課後社会」が必要なんだよね。
そしてその「自分が機嫌よくいられる場所」の価値は、身体的なものであり、本人にしか分からない。つまり「計測不可能なもの」。
この「計測不可能」な余白を許容できなくなっているんだな。
金魚が金魚鉢ではなくて、広い川で泳いでいた時のような。
この文の少し前に、格付けできないのが「知」と題して、人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減少していることに対して、考察している。
~~~
「数値的な格付け」に基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。
というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。
独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。
~~~
うう。うなってしまうね。
「個性を発揮せよ、独創性を持て。」と言うならば、それを格付けすることをやめなければならない。その計測可能性を捨てないといけない。
「学校」は、「教育」は、「まちづくり」はどうなんだ?と問いかけてくる。
「越境」し、他者や本と「対話・協働」し、「試行・省察」すること。
金魚鉢の外の広い世界や、新たな自分を「発見」し、「変容」し続けること。
そのベースキャンプに、本屋や図書館がなったらいいと思うし、自分がニュートラルになれる無数の余白が、まちにたくさんあったらいい。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。