2023年08月15日
自分を「定位」する地図

「つくるひとになるために~若き建築家と思想家の往復書簡」(光嶋裕介 青木真平 灯光舎)
読み始めました。
LETTER#1「自分の地図をつくる」から。
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自分を確かな存在として確認する、もしくは今どこにいるのかを定位するためにコツコツとつくってきたはずの「自分の地図」の効力に疑問を感じています。
自分の思考の痕跡として、また生きる哲学として、自分のバラバラな認識や価値観を柔軟でしなやかなものとしてきちんと動きの中で確認するための地図を更新していきたい。今の生きづらさから逃れるためには自分なりの地図が必要なのです。
この地図は目に見えません。いや、見えないからこそ、考えて、書き換えていくことができる。ずっと不完全なんだと思います。そして地図をちゃんと手入れすることで、自分が今どこにいるのかということと、これからどこへ向かえばいいのかが、おぼろげながらも見えてくることが大事なんだと思います。
さらには、この地図は「完成しない」ということが何より重要だと僕は思っています。世界が動き続けていて、自分も変化していくためには、何事も「途上」であるという感覚を毎日の生活の中で大切にしたい。だって世界は動き続けていて、僕たちの道しるべとしての地図もまた常に揺らぎの中から書き換えられることで、生成されていくのですから。
そうした常識にとらわれない自由というものを他者との偶然性に身を委ねることで発見したいと思っています。
僕たちは日々の生活の中にわかりやすい意味を見つけ、ついそこに執着して因果関係をはっきりさせることでさらに思考する可能性を逆に排除してしまっていないでしょうか。一意的なもののとらえ方からすると、余白は単なる無駄なものでしかない。世界のわからなさをもっと謙虚に受け入れて、むしろ、そのわからなさにどっぷり身を浸して楽しむくらいのゆとり、それこそ遊び(余白)をもって世界と関わりたい。言い換えると、充分に頭で考えたあとは、因果関係による理由など手放して、直感的に偶然性を志向するのどうでしょうか。
自分の中の多くの他者を発見しながら、しなやかに変容し続ける世界といかに混ざり合うか。大きく豊かな生態系の一部であることを存分に味わう視点を見つけなくてはいけないように思えてならないのです。
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「地図」「途上」「偶然性」「余白」
キーワードひとつひとつが、なんかしっくりきます。
そしてなによりも「自分を定位する」地図というキーワード。
新型コロナウイルスが全世界を覆った(ように見えた)3年間で僕たちが失ったもの。
それは「(予測可能な)未来」であった。
もっと言えば「未来が明治以来のフィクション」だと知った。
「目標」の意味や価値が劇的に減少していることを実感した。
だから、僕たちは「漂流している」(ように感じる)
それは、「自分を定位する」ための地図の時間的なタテ軸を失ったからではないのか。
「目的・目標という未来というフィクション」に替わるフィクションを必要としてるのではないか。
「麒麟山米づくり大学」
https://komeuniv.jp/
https://www.instagram.com/komeuniv_kirinzan/
https://note.com/komeuniv/
の取り組みは、受講生・参加者にとって
地元産米100%でつくる酒造りを「接いでいく」というヨコ軸と
180年の伝統ある酒蔵を「継いでいく」というタテ軸という
タテヨコの軸に「自分を定位する」試みであるとも言えると思う。
予測不可能な未来へ向かうベクトルとしての自分と、
他者との関係の中で浮かび上がっていく関係性としての自分。
そこにある偶然性に「身を委ねる」こと。
そんな曖昧な地図を更新し続けること。
変容する世界としなやかに対峙していくこと。
そんな目に見えない地図を、地図づくりを、ひとりひとりが必要としているのだろう。
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