プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 107人
オーナーへメッセージ

2014年06月19日

ツルハシ号の原点は、スナックを改装しないタコ焼き屋さん

人のプロフィールっていうのは、
どの観点から書くかで違う人生になる。

講演テーマによって、
プロフィールを変えていくというのは
必要なことなのかもしれない。

「中学生・高校生に学校以外の居場所を」
「学校外の面白い大人に出会える機会を」

と言っている僕のプロフィールは、

「大学生にはキャリアドリフトのために地域活動を」とか
「人と人をつなぐには、本がもっともパワフルだ」とか
言っている時とは変わってきて当然だ。

そういう点で僕の「教育ジャンル的」プロフィールは、

中学・高校のとき、
「何かデカいことがしたい」と思っていた。
1988年に開通した瀬戸大橋のコマーシャル
大成建設の「地図に残る仕事」のキャッチコピーに心ときめいた。

そんな僕の前にやってきた
最初の「デカいこと」は地球環境問題だった。

「いま、地球が危ない」だったか、
そんなタイトルの本には、
絶滅しつつある生物や、
進行する砂漠化の様子などが書かれていた。

これは何とかしたい。
と少年ながらに強く思った。

しかしながら、
それを語り合う友も、
学校の先生も、僕にはいなかった。

親に話すのもいまいち恥ずかしいし、
そんな中で、中学・高校とバスケットに打ち込んでいた。

高校のとき。
いまの活動の原点となっているかもしれない、
おばちゃんとの出会いがあった。

駅前にあった、小さなタコ焼き屋さん。
駄菓子やカップラーメンなども売っていた、
まさに高校生男子のたまり場的空間だった。

内装は、
いま考えると、
いわゆる「スナック」だった。

オッサンたちが集い、ウイスキーの水割りを飲みながら、
演歌を歌う、あの「スナック」そのものだった。

僕は「スナック」というものを知ったのが
25歳の時だった。
巻に住んでいた時に役場の課長や、家を借りていた大家さんに2次会で連れて行かれたからだ。

そのときは、推定年齢60歳オーバーのママを筆頭に、年齢層高めのオバさまを目の前に、
「オッサンたちは、オバちゃんしかいないスナックで飲んで歌って楽しいのだろうか?」
と強烈な疑問を感じたのだが、

お店にいる人たちをよく観察してみると、
彼らの目的は、
「ママに話を聞いてもらう」
ということに尽きることがわかった。

まだママがどんな話題に対しても、
カウンセリングマインド(笑)を持って、
あいづちやオウム返しをしてくれるという
「居場所」空間を演出していたことも大きな発見だった。

ふと。
あの「タコ焼き屋」のことを思い出した。

その「タコ焼き屋」に僕が行けるのは、
バスケ部が休みの水曜日か、
テスト期間中で部活動停止になったときだった。

タコ焼き屋自体は、
たしか夜の9時か10時ころまでやっていたのだが、

部活動の帰り道に横を通りがかると、
その店は完全に「ヤンキー高校生のたまり場」と化していて、
高校生なのにタバコは吸い放題で、
一般人の僕には超コワい空間に思えた。

その店は男子高校生に人気があった。
ではなぜ、
僕は、そしてそのヤンキーたちは、
その店に行ったのだろうか。

そのときは実感していなかったが、
おそらく、その経営者のオバちゃんは、
昔、スナックを経営していたけど、
なんらかの理由で、タコ焼き屋さんに商売替えをしたのだ。

だからこそ、
おそらくスナック時代に身につけた
カウンセリングマインドと聞き上手をそのままタコ焼き屋で再現したのだ。

「話を聞いてもらう」
これがどんなに大切なことか、多くの人は実感しているだろう。
そしてそこには、
ただ聞いてもらうだけで、評価や助言を必要としていないのだ。

しかし、学校の先生や友人、
ましてや親に話すとなると、
そこには評価や助言を受けるリスク(!)がかなりの確率で存在している。
だから、話せない。

タコ焼き屋のおばちゃんは、
タコ焼きを焼きながら、話を聞く。

また、タコ焼きという食べ物が、
焼き上がりに一定の時間を要するので、
その間にたわいもない会話をすることができるのだ。
それを入り口に、若者は心をだんだんと開き、
店に来るごとにいろいろなことを話すようになる。

僕がいま、古本コーナーHAKKUTSUをやっているのは、
もしかしたら、あのタコ焼き屋さんのおばちゃんのおかげなのかもしれない。

古本を買う時に、
名前と年齢を書かなくてはならず、
そこから店員サムライは、会話の糸口を見つける。

「17歳ってことは高校生?」
「部活なにかやっているの?」
「テスト終わった?」
そんな小さな会話から、関係性が始まっていく。

きっと千葉のタコ焼き屋さんに通っていたヤンキーたちも、
そのオバちゃんに話を聞いてもらいたかったのだろう。

なんらかの理由で自己主張のため、
ヤンキーという表現方法をとった彼らの
話を聞いてあげる大人。
それはもしかしたら、唯一、タコ焼き屋のオバちゃんだったかもしれない。

「評価」や「助言」をすることなく、聞いてあげるということ。
それはもしかしたら、タコ焼きを販売するという
ツールがあるからこそ可能になっているのかもしれない。

小阪裕司さんの
「心の時代にモノを売る方法」(角川ONEテーマ21)
を読むと、

「ビジネスのためにコミュニケーションがある」のではなく、
「コミュニケーションのためにビジネスがある」ということを
実感させられる。

きっとあのタコ焼き屋さんが僕の本屋としての原点なのかもしれない、
と気がついた。

いま、高校時代の僕(のような子)がお店に来て、
「環境問題をなんとかしたいんだ」と言われたら、
「それはいったい、どういうことだ?」
と「評価」や「助言」することなく深く突っ込んで聞いてあげられる店員になりたいと思う。

ニシダタクジ教育分野プロフィール

1974年 新潟市南区(旧白根市)に生まれる。
1987年 中学校入学、「地図に残る仕事」のCMに衝撃をうける。
1990年 高校入学、タコ焼き屋さんに出会う。
1992年 「砂漠緑化に生命を賭けて」に図書館で出会い、農学部を志望する 
1994年 一浪して新潟大学農学部入学
1997年 教育学部の勉強会などに積極的に参加
1998年 「自然農」の沖津さんに出会い、マニュアルを探していた自分に気がつく。
1999年 巻で畑のある公園づくり「まきどき村」を始める
2002年 不登校の中学校3年生に出会い、学校外の大人と出会える場をつくりたいと思う。
2004年 吉田松陰先生に出会い、「学びあいの場づくり」で希望を生む決意をする。
2004年 玉川大学教育学部の通信課程に編入。中学校社会科教師を目指す。
2004年 中越地震で川口町での子どもと遊ぶボランティアに参加する⇒「ボランティアとは、双方向のコミュニケーション」
2005年 山形の「だがしや楽校」をモデルに巻の愛宕神社境内で地域の大人と子どもが遊ぶ「虹のひろば」をはじめる。
2005年 玉川大学(東京・町田)でスクーリング⇒「僕のポジションは学校ではないかもしれない。」
2007年 北魚沼郡川口中で3週間の教育実習⇒「教室だけの姿が子どもの姿ではない。」
2007年 中越沖地震で刈羽村での子どもと遊ぶボランティアをコーディネートする。⇒「子どもはニーズを言語化できないから想像することが大事」
2010年 玉川大学期限切れ除籍
2011年 ツルハシブックス開店、地下古本コーナーHAKKUTSUを始める。
2013年 野山塾はじまる。
2014年 ツルハシ号始動。

こうして見てみると、
やはりあのタコ焼き屋さんの存在は
僕の人生に大きな影響を与えているのだろうと思う。

それが、
「若者のための悩み相談コーナー」
みたいな市役所で行政がやってるような場所ではやっぱりダメで、

もちろん、未成年にタバコを吸わせてはいけないのだけど、
そのくらいのダークな空間こそが若者が魅力を感じるというか、
気軽に言って、心を開けるのだろうと思う。

ツルハシ号が、ツルハシブックスが、
そんな空間を生み出すきっかけとなることを
強く願う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)足跡