2020年05月17日
場(プラットフォーム)が機能され続けるための仮説
オンライン・ツルハシブックスという実験に向けての仮説を。
weekly ochiai 2019年2月22日
落合陽一×宮台真司「人類をアップデートせよ)
https://newspicks.com/news/3689270/body/?ref=user_2250
で、宮台さんが言っていたこと。
~~~以下一部抜粋(上記ウェブページより)
いいねボタンは、人をクズにする。
何故かというと、アートとエンターテイメントは違う。エンターテイメントは、楽しませて回復させる、re・creation。
アートはロマン派の定義によると、人の心に傷をつけることなんですよね。ある種の不快さに直面させて、何かを持って帰ってもらう。
だから、エンターテイメントはいいねが集まるけど、アートはいいねが集まらないのが当たり前で、それを目指すべき。
意識高い系がなぜクズなのか。皆んながいいねボタンを押すものを良いものだと思ってるから。
日本の文化は、自分が所属している内集団でもっぱらコミュニケーションして、外集団の人たちとは関わらない。
ヨーロッパやアメリカみたいに、内集団と外集団を含めた、包括集団のプラットホームを「公」って言うんだけど、日本にはそれが全くない。
内集団じゃない人間たちを含めて、みんなどういう風に行動するんだろうと、想像する場がパブリックなんだけど、日本は想像しなかった。
今起こってることはね、テクノロジーが発達して、システムが拡張した結果、世界中が日本化してるんですよ。
見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。付き合いたいやつだけ付き合って、そうじゃない人間を排斥する。
人間的なものを保つことが大事。
なので、人類をアップデートするという発想にも、問題があるかなという気もする。
人間的なるものを支える、プラットフォームをアップデートするということなんじゃないか。
~~~
そして、放送の中でいちばん印象に残ったことは、
プラットフォームの寿命は2年。
2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次の
アーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。
ここにおそらく「テーマコミュニティ」の難しさがある。
上に書いてあるように、
テクノロジーによって、人と人はつながりやすくなったかもしれない。
しかしそれによって、見たいものだけを見る、付き合いたいやつだけと付き合う、
みたいな世界がきてしまっている。
・・・
という前提で。
だからこそ「本」をテーマにしたコミュニティ(あるいはイベント)は脆弱だと言えるのかもしれない。
おそらくはこれに近い理由で
ツルハシブックスという場は、限界を迎えた。
閉店の2日後のブログ
「居場所のジレンマ」(16.11.7)
http://hero.niiblo.jp/e482717.html
~~~以下ブログより抜粋
11月3日も、同じことが起こった。
ツルハシブックスで知り合ったお客さん同士で
遊びに行った後の午後6時前に、
ふたたび「ただいま」ともどってきた。
10人ほどのお客さんが、テーブル席に集まっていた。
そうなると、もう、
その空間は「劇場」としての緊張感を失う。
初めて来店したお客さんへの対応も、
まずは「うるさくってすみません」という言葉から入るようになる。
それが決して悪いわけではないという人もいるかもしれない。
でも、僕がツルハシブックスで創りたかったのは、
劇場としての本屋であって、「居場所」ではない。
~~~以上抜粋
これがまさに、ツルハシブックスの閉店理由だった。
いつのまにか、プラットフォームの2年の寿命に到達してしまったのかもしれない。
今回。この外出自粛の状況の中で、「偶然」を生み出し続ける、
「本屋のような劇場」がアップデートできるのではないかと思った。
と同時に、劣化しないプラットフォームとはなんだろうか?
という問いを同時に考えた。
たとえば、22年目を迎える「まきどき村」はなぜ続いているのか?ということ。
唐澤さんとの対話も大きな価値を持った。
キーワードは、次の3つだ。
1 身体性
本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。
言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。
言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。
2 (半)開放性
「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、
だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、
一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。
「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、
それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。
3 (共同体の)多層性
横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、
目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。
ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。
仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。

内山節「共同体の基礎理論」(農文協)では、以下のように「共同体」の多層性について語られる。
~~~以下引用
真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。
共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。
この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。
とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。
故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。
~~~以上引用
思えば、僕のテーマはずっと「アイデンティティ・クライシス」だった。
「自分らしく生きる」とはなんだろうか?若者(かつて若者だった私)は、なぜこんなにも苦しそうなのか。
そこに対して、ひとつのアプローチ。
「この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。」
たぶん、つくりたいプラットフォームは、そんな「場」。
そしてそれは継続的に現れるのではなく、瞬間に訪れる。
アサダワタルさんの表現を借りれば、
自分にとって居場所とは、場所ではなく、「今この瞬間」という「時間」そのものだった。そしてそれは当然のように常に変化し、転がってゆくものだ。その感覚ってすごく大切だと思う。「場」が「居場所」になった瞬間、そこへのある種の「安定」というか、変わらないでほしい、というか、保ちたいというか、そういうのが始まってしまう。
そういう瞬間をつくること。
そして、それが、オンライン空間にこそ作ることが可能なのではないか。
その実験はまずは、
「ツルハシブックス」という身体性の共有をベースに、つくっていくこと。
それが本屋のような劇場、「オンラインツルハシブックス」への仮説です。
weekly ochiai 2019年2月22日
落合陽一×宮台真司「人類をアップデートせよ)
https://newspicks.com/news/3689270/body/?ref=user_2250
で、宮台さんが言っていたこと。
~~~以下一部抜粋(上記ウェブページより)
いいねボタンは、人をクズにする。
何故かというと、アートとエンターテイメントは違う。エンターテイメントは、楽しませて回復させる、re・creation。
アートはロマン派の定義によると、人の心に傷をつけることなんですよね。ある種の不快さに直面させて、何かを持って帰ってもらう。
だから、エンターテイメントはいいねが集まるけど、アートはいいねが集まらないのが当たり前で、それを目指すべき。
意識高い系がなぜクズなのか。皆んながいいねボタンを押すものを良いものだと思ってるから。
日本の文化は、自分が所属している内集団でもっぱらコミュニケーションして、外集団の人たちとは関わらない。
ヨーロッパやアメリカみたいに、内集団と外集団を含めた、包括集団のプラットホームを「公」って言うんだけど、日本にはそれが全くない。
内集団じゃない人間たちを含めて、みんなどういう風に行動するんだろうと、想像する場がパブリックなんだけど、日本は想像しなかった。
今起こってることはね、テクノロジーが発達して、システムが拡張した結果、世界中が日本化してるんですよ。
見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。付き合いたいやつだけ付き合って、そうじゃない人間を排斥する。
人間的なものを保つことが大事。
なので、人類をアップデートするという発想にも、問題があるかなという気もする。
人間的なるものを支える、プラットフォームをアップデートするということなんじゃないか。
~~~
そして、放送の中でいちばん印象に残ったことは、
プラットフォームの寿命は2年。
2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次の
アーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。
ここにおそらく「テーマコミュニティ」の難しさがある。
上に書いてあるように、
テクノロジーによって、人と人はつながりやすくなったかもしれない。
しかしそれによって、見たいものだけを見る、付き合いたいやつだけと付き合う、
みたいな世界がきてしまっている。
・・・
という前提で。
だからこそ「本」をテーマにしたコミュニティ(あるいはイベント)は脆弱だと言えるのかもしれない。
おそらくはこれに近い理由で
ツルハシブックスという場は、限界を迎えた。
閉店の2日後のブログ
「居場所のジレンマ」(16.11.7)
http://hero.niiblo.jp/e482717.html
~~~以下ブログより抜粋
11月3日も、同じことが起こった。
ツルハシブックスで知り合ったお客さん同士で
遊びに行った後の午後6時前に、
ふたたび「ただいま」ともどってきた。
10人ほどのお客さんが、テーブル席に集まっていた。
そうなると、もう、
その空間は「劇場」としての緊張感を失う。
初めて来店したお客さんへの対応も、
まずは「うるさくってすみません」という言葉から入るようになる。
それが決して悪いわけではないという人もいるかもしれない。
でも、僕がツルハシブックスで創りたかったのは、
劇場としての本屋であって、「居場所」ではない。
~~~以上抜粋
これがまさに、ツルハシブックスの閉店理由だった。
いつのまにか、プラットフォームの2年の寿命に到達してしまったのかもしれない。
今回。この外出自粛の状況の中で、「偶然」を生み出し続ける、
「本屋のような劇場」がアップデートできるのではないかと思った。
と同時に、劣化しないプラットフォームとはなんだろうか?
という問いを同時に考えた。
たとえば、22年目を迎える「まきどき村」はなぜ続いているのか?ということ。
唐澤さんとの対話も大きな価値を持った。
キーワードは、次の3つだ。
1 身体性
本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。
言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。
言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。
2 (半)開放性
「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、
だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、
一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。
「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、
それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。
3 (共同体の)多層性
横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、
目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。
ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。
仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。

内山節「共同体の基礎理論」(農文協)では、以下のように「共同体」の多層性について語られる。
~~~以下引用
真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。
共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。
この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。
とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。
故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。
~~~以上引用
思えば、僕のテーマはずっと「アイデンティティ・クライシス」だった。
「自分らしく生きる」とはなんだろうか?若者(かつて若者だった私)は、なぜこんなにも苦しそうなのか。
そこに対して、ひとつのアプローチ。
「この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。」
たぶん、つくりたいプラットフォームは、そんな「場」。
そしてそれは継続的に現れるのではなく、瞬間に訪れる。
アサダワタルさんの表現を借りれば、
自分にとって居場所とは、場所ではなく、「今この瞬間」という「時間」そのものだった。そしてそれは当然のように常に変化し、転がってゆくものだ。その感覚ってすごく大切だと思う。「場」が「居場所」になった瞬間、そこへのある種の「安定」というか、変わらないでほしい、というか、保ちたいというか、そういうのが始まってしまう。
そういう瞬間をつくること。
そして、それが、オンライン空間にこそ作ることが可能なのではないか。
その実験はまずは、
「ツルハシブックス」という身体性の共有をベースに、つくっていくこと。
それが本屋のような劇場、「オンラインツルハシブックス」への仮説です。