2020年05月28日
「自分ごと」になるための「対話」のデザイン
「就活」の違和感。
その大きなもののひとつが「自己分析」だろうと思う。
「自分を知る」というやつだ。
人はそんなに、自分を知らない。
しかも「自分」はひとつではなく、インスタの複数アカウントのごとく、シーン(場面での立場)によって使い分けている。
昨日は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会第3回目
題材は、
【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編②
https://www.youtube.com/watch?v=sHemvchZ_6c&t=2481s
でした。
昼の部は先生方4名+校長先生
地域の方3名+学校教育課長
そして黎明学舎スタッフ4名の計13名、
夜の部はパートナーズ3名+私の4名で行いました。
題材があることで対話できるなあと。
~~~ここから動画メモ
感じること、問いを立てること、意味を味わうこと
地域課題解決(地域素材・探究能力):これまで総合で取り組まれてきたこと
と個別最適化(問いに当事者性):マイプロジェクトなど
の真ん中にふるさと教育(探究)をつくっていくこと。
マイプロジェクト:その子にとって、とことん自分ごとを追求した。
飛騨市学園構想⇒大人の探究活動
検討委員会:対話が乏しい。
事務局が原案をつくり、委員の質問に対して事務局が答える。
行政の会議こそ探究的にしていくべきではないか?
授業も同じ。
教える流れのデザインをして、生徒がお客さんであっていいのか?
対話性・創造性が失われている。
探究:問いを引き出すことが重要。問いづくりから出発する。
唯一解はなく、納得解を追う:当事者性や創造性が向上する。
探究的な行政プロセス
委員から問いが生まれるように工夫する。
ファシリテーターとしての事務局
主体的になる←自分ごとになる←対話によって←問いによって←題材によって
休校前⇒休校後
※対話する必要がある。
育ちの文脈の共有・関係性づくりが重要
~~~ここまで動画メモ
そのあと、先生方を交え、ディスカッションしました。(メモは夜の部を含む)
・ゴール到達点を共有することが大切なのではないか。
・「自分を知る」のと「地域を知る」ということは同時に起こるのではないか?
・筑波大学付属坂戸高校は、体験⇒対話の流れができていた。
・畑作業はしんどいという身体性を共有していることも。
・ゴールを設定するとゴールに向かって最適化するのでは?
・「他者」として目の前の相手を認識できるか
・「信用社会」から「信頼社会」へ
・体験で終わらずにそれをふりかえり、言語化すること。
・頭で振り返るまでに「印象に残ったこと」など、心の振り返りをする。
・ボート部:まちの人との対話の機会がある
・雑談・身体性感覚、共通テーマが重要
・答えを教えてしまうのではなく、もやもや感を助ける
・違う年齢層の人と話す(他者と話す)
・多様な人と関わる:ロールモデルを通して自分を知る
・「自分」っていうのは「哲学(美学)」と「承認欲求」
・「対話」(ふりかえりを含め)によって言語化がおこって自分を知り、自分を承認できるようになる。
・大人自身が変わり続けないといけない。
・「対話」をすることの重要性:相手の話を聞く、感じたことを言葉で表現する。
・「学びの土壌づくりをやらなければならない。
・「問い」を深めるために、問いかける人が必要。
探究
↑
承認
↑
フラットな「対話」←「問い」
たぶんそんな感じ。
・先生という言葉は死語。どの方向に進むかわからないのだから。
・「探究的に学ぶ」とは「対話的」「機会的」「実験的」に学ぶということ。
そんな感じ。
これからやっていくこととしては、「対話」の時間のデザイン。
題材としての大人と問いかける大人の確保・授業参画。
その大人が、自分自身も探究していること。
問いかける人は、ある意味、アーティストである。
教育はアートに近づいていく。そんな風に思った。
夜の部で出たアイデアは、
地域人にインタビューして、編集してアウトプットするような機会がつくれないか?ということと
zoomなどのツールを使ったコミュニケーションの場がもっとつくれないか?
中高生が地域の人的資源(大人というか、対話ベースで取材)を編集して発信する「奥阿賀編集室」(仮)と
そこに至るきっかけにもなる、あがまち未来フォーラム・オンライン(仮)を立ち上げてもいいのかなあと思ってます。
「主体的に学ぶ」には、「自分ごとになる」ことが大切で
「自分ごとになる」ためには、「対話」による相互理解、相互承認が必要で、
「対話」を生むには問い、その前にある題材が必要で。
っていうことになっていて、
「対話」を真ん中に、パートナーズの大人たちも参画したような
デザインが可能になっていくのではないだろうか。
最後に、次回のお題動画になるかもしれないけど、
苫野一徳×税所篤快ZOOMトークイベント――ぼくたちは、「未来の学校」をどうつくっていくのか?
https://www.youtube.com/watch?v=0JiYqY-O-rM&t=447s
これを見ていて、気が付いたことを含めて、まとめてみる。
~~~ここから動画メモ
「探究的」に学ぶとは、
「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと
子どもに主体性がなく、チャレンジしない、覇気がない、っていっているとしたら、
先生自身が主体性がなく、チャレンジせず、覇気がにじみ出てないのではないか。
小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。
小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。
「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。
教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。
「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?
自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。
この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。
先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?
学校じゃなければ、できないことは何か?
学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。
だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。
学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。
現在の教育は150年前の仮説にすぎない。
それ以前から学びはすでに存在していた。
時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。
それが現在のシステム。
~~~ここまで動画メモ
「探究」がどのように起こるのか?
そもそも探究とはなにか?
っていうのに対しての爽快とも言えるくらいのはっきりした考え。
一番印象に残ったのは
「探究」って遊びでしょ?って。
そうそう。
「遊び」つまり、エンターテイメントの本質は「予測不可能性」なのだよね。
「ゴールに向かって、近づいている」とか「ゴールを達成した」っていうのは、実は楽しくない。
そう考えると、答えがないような探究テーマを、自分で設定し、
そこに向かっていく(実際はどこに向かっているのかわからない)のは
とても楽しい「遊び」なのだろうなと思った。
そんな探究を、このまちと、まちに住む大人を題材につくっていくこと、
オンラインでたくさんの場や大人とつないで、機会と対話を生んでいくこと。
それらによって刺激された好奇心と探究心でガンガン実験してみること。
そんな探究を学校も、地域も、先生も、生徒自身も、ともに学びながらつくりあげていけたら、楽しいなあと思う。
君も、この列車にのらないか?
その大きなもののひとつが「自己分析」だろうと思う。
「自分を知る」というやつだ。
人はそんなに、自分を知らない。
しかも「自分」はひとつではなく、インスタの複数アカウントのごとく、シーン(場面での立場)によって使い分けている。
昨日は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会第3回目
題材は、
【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編②
https://www.youtube.com/watch?v=sHemvchZ_6c&t=2481s
でした。
昼の部は先生方4名+校長先生
地域の方3名+学校教育課長
そして黎明学舎スタッフ4名の計13名、
夜の部はパートナーズ3名+私の4名で行いました。
題材があることで対話できるなあと。
~~~ここから動画メモ
感じること、問いを立てること、意味を味わうこと
地域課題解決(地域素材・探究能力):これまで総合で取り組まれてきたこと
と個別最適化(問いに当事者性):マイプロジェクトなど
の真ん中にふるさと教育(探究)をつくっていくこと。
マイプロジェクト:その子にとって、とことん自分ごとを追求した。
飛騨市学園構想⇒大人の探究活動
検討委員会:対話が乏しい。
事務局が原案をつくり、委員の質問に対して事務局が答える。
行政の会議こそ探究的にしていくべきではないか?
授業も同じ。
教える流れのデザインをして、生徒がお客さんであっていいのか?
対話性・創造性が失われている。
探究:問いを引き出すことが重要。問いづくりから出発する。
唯一解はなく、納得解を追う:当事者性や創造性が向上する。
探究的な行政プロセス
委員から問いが生まれるように工夫する。
ファシリテーターとしての事務局
主体的になる←自分ごとになる←対話によって←問いによって←題材によって
休校前⇒休校後
※対話する必要がある。
育ちの文脈の共有・関係性づくりが重要
~~~ここまで動画メモ
そのあと、先生方を交え、ディスカッションしました。(メモは夜の部を含む)
・ゴール到達点を共有することが大切なのではないか。
・「自分を知る」のと「地域を知る」ということは同時に起こるのではないか?
・筑波大学付属坂戸高校は、体験⇒対話の流れができていた。
・畑作業はしんどいという身体性を共有していることも。
・ゴールを設定するとゴールに向かって最適化するのでは?
・「他者」として目の前の相手を認識できるか
・「信用社会」から「信頼社会」へ
・体験で終わらずにそれをふりかえり、言語化すること。
・頭で振り返るまでに「印象に残ったこと」など、心の振り返りをする。
・ボート部:まちの人との対話の機会がある
・雑談・身体性感覚、共通テーマが重要
・答えを教えてしまうのではなく、もやもや感を助ける
・違う年齢層の人と話す(他者と話す)
・多様な人と関わる:ロールモデルを通して自分を知る
・「自分」っていうのは「哲学(美学)」と「承認欲求」
・「対話」(ふりかえりを含め)によって言語化がおこって自分を知り、自分を承認できるようになる。
・大人自身が変わり続けないといけない。
・「対話」をすることの重要性:相手の話を聞く、感じたことを言葉で表現する。
・「学びの土壌づくりをやらなければならない。
・「問い」を深めるために、問いかける人が必要。
探究
↑
承認
↑
フラットな「対話」←「問い」
たぶんそんな感じ。
・先生という言葉は死語。どの方向に進むかわからないのだから。
・「探究的に学ぶ」とは「対話的」「機会的」「実験的」に学ぶということ。
そんな感じ。
これからやっていくこととしては、「対話」の時間のデザイン。
題材としての大人と問いかける大人の確保・授業参画。
その大人が、自分自身も探究していること。
問いかける人は、ある意味、アーティストである。
教育はアートに近づいていく。そんな風に思った。
夜の部で出たアイデアは、
地域人にインタビューして、編集してアウトプットするような機会がつくれないか?ということと
zoomなどのツールを使ったコミュニケーションの場がもっとつくれないか?
中高生が地域の人的資源(大人というか、対話ベースで取材)を編集して発信する「奥阿賀編集室」(仮)と
そこに至るきっかけにもなる、あがまち未来フォーラム・オンライン(仮)を立ち上げてもいいのかなあと思ってます。
「主体的に学ぶ」には、「自分ごとになる」ことが大切で
「自分ごとになる」ためには、「対話」による相互理解、相互承認が必要で、
「対話」を生むには問い、その前にある題材が必要で。
っていうことになっていて、
「対話」を真ん中に、パートナーズの大人たちも参画したような
デザインが可能になっていくのではないだろうか。
最後に、次回のお題動画になるかもしれないけど、
苫野一徳×税所篤快ZOOMトークイベント――ぼくたちは、「未来の学校」をどうつくっていくのか?
https://www.youtube.com/watch?v=0JiYqY-O-rM&t=447s
これを見ていて、気が付いたことを含めて、まとめてみる。
~~~ここから動画メモ
「探究的」に学ぶとは、
「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと
子どもに主体性がなく、チャレンジしない、覇気がない、っていっているとしたら、
先生自身が主体性がなく、チャレンジせず、覇気がにじみ出てないのではないか。
小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。
小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。
「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。
教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。
「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?
自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。
この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。
先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?
学校じゃなければ、できないことは何か?
学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。
だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。
学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。
現在の教育は150年前の仮説にすぎない。
それ以前から学びはすでに存在していた。
時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。
それが現在のシステム。
~~~ここまで動画メモ
「探究」がどのように起こるのか?
そもそも探究とはなにか?
っていうのに対しての爽快とも言えるくらいのはっきりした考え。
一番印象に残ったのは
「探究」って遊びでしょ?って。
そうそう。
「遊び」つまり、エンターテイメントの本質は「予測不可能性」なのだよね。
「ゴールに向かって、近づいている」とか「ゴールを達成した」っていうのは、実は楽しくない。
そう考えると、答えがないような探究テーマを、自分で設定し、
そこに向かっていく(実際はどこに向かっているのかわからない)のは
とても楽しい「遊び」なのだろうなと思った。
そんな探究を、このまちと、まちに住む大人を題材につくっていくこと、
オンラインでたくさんの場や大人とつないで、機会と対話を生んでいくこと。
それらによって刺激された好奇心と探究心でガンガン実験してみること。
そんな探究を学校も、地域も、先生も、生徒自身も、ともに学びながらつくりあげていけたら、楽しいなあと思う。
君も、この列車にのらないか?
