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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年02月15日

消滅可能性都市⇒コモンズ再生可能性都市

消滅可能性都市⇒コモンズ再生可能性都市
金曜日、岡本太郎展@万代島美術館を見に行ってきました。

「岡本太郎の仕事論」(平野暁臣日経プレミア新書)
を読んでから行くといいかもしれません。
http://hero.niiblo.jp/e163257.html
(12.3.28)

未来の輝かしい世界を見せた後、観客はエスカレーターで一気に地上に降りてくる。そこには現在を表現する最後のセクション「世界を支える無数の人々」だ。そこには世界から集められた600の写真が掲げられていた。

著名な写真家による芸術写真ではない。毎日を必死で生き抜く名も無き大衆の生活写真である。太郎はこの展示に込めた。「世界は無名な人々がつくっている」というメッセージを。

~~~

今回、地下展示の全貌が再現してあって、そこが一番すごかったかな。
「いのち」「ひと」「いのり」。

「いのち」はつながっていて、
「ひと」もその道の途上にあって、
「いのり」と共に今を生きている。

そんな感覚。
太郎が遺したメッセージとはなんだったのか?
とあらためて問い直された。

そんなタイミングで、年末からの「資本論」シリーズのラスト、
「人新世の資本論」(斎藤幸平 集英社新書)
消滅可能性都市⇒コモンズ再生可能性都市

白井聡「武器としての資本論」(20.12.28)
http://hero.niiblo.jp/e491278.html

100分DE名著「カールマルクス資本論」(21.1.21)
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
からの、この本。

僕が本屋さんだったら読んでほしい人は、

・大学生(特に経済学部・農学部)
・地方議員・首長(特に小さな町村)
・90年代に大学生だった僕ら世代。

「SDGs」(持続可能な開発目標)への違和感を鋭く切ってくれる1冊。

「はじめに」でいきなり、SDGsは「大衆のアヘン」である、と断じる。私たちは、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺く「グリーン・ウォッシュ」にいとも簡単に取り込まれてしまう、と。

この本は、「気候危機」に際して、アヘンに逃げることなく、政治家や専門家に危機対応を任せるだけではなく、ひとりひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければ、超富裕層だけが優遇され、その他多数、特に「グローバル・サウス」(グローバル化によって被害を受ける領域ならびのその住民)への影響は甚大なものとなるだろうと説く。

1997年、地球温暖化防止京都会議(COP3)のとき、僕は農学部の大学生だった。
あのときと事態は何ら変わっていない。いや、それどころか悪化の一途を辿っている。
「環境問題」は資本主義社会の中で、単なるビジネスチャンスへと変わってしまった。

なんでこんなことになってしまったのか。
そんな問いに対して、この本は「不都合な真実」を次々と明らかにしていく。
読みながら、胸が苦しくなる。

僕の中でのキーワードをいくつか抜粋してみる。

「外部化」たぶんこれが矛盾というか不条理の最大の要因。

資本主義は「中核」と「周辺」で構成されていて、「グローバル・サウス」という周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。

これは、日本のいわゆる「高度経済成長」でも構図は同じだ
農家の次男、三男を安い労働力として抱え込んで、利潤を最大化してきた。
かつ、「武器としての資本論」にあったように、フォーディズムのように、
彼らを「消費者」としても育てていったのだが。

そして今。
もはや奪うべき「周辺」がなくなってしまった。

これは「労働力」だけではない、「地球環境」もそうだと本書は説明する。
「人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁をおこなうための外部が消尽した時代だといってもいい。」

マルクスを参照し、三種類の「転嫁」について説明する。

1 技術的転嫁-生態系の攪乱
マルクスと同時代の科学者リービッヒは持続可能な農業のためには、穀物が吸収した分の無機物を土壌に戻すことが不可欠だと説いた。ところが都市と農村の分業により、野菜は都市へと出ていき、その養分は戻らない。また、資本主義では短期的な利潤を最大化するため、連作が起こり、土壌は疲弊していく。それが文明崩壊の危機だと。

ところが、それは起こらなかった。「ハーバー・ボッシュ法」により、廉価な化学肥料が大量生産されるようになったからだ。ただし、この発明によって、循環の「亀裂」が修復されたわけではない。「転嫁」されたに過ぎない。窒素化合物の環境流出によって、地下水の硝酸汚染や富栄養化による赤潮を引き起こす。

2 空間的転嫁-外部化と生態学的帝国主義
ハーバー・ボッシュ法が開発されていなかったマルクスの時代に注目された代替肥料は海鳥の糞が化石化した「グアノ」だった。南米のペルー沖には島のようにグアノが積み重なっていて、それをイギリスやアメリカに持っていった。大勢の労働者が動員され、グアノは一方的に奪いさられた。結果、枯渇する資源をめぐって、戦争が勃発することになる。

このような矛盾を中核部にとってのみ有利な形で解消する転嫁の試みは、「生態学的帝国主義」という形を取る。生態学的帝国主義は、周辺部からの掠奪に依存し、同時に矛盾を周辺部へと移転するが、まさにその行為によって、原住民の暮らしや生態系に大きな打撃を与えつつ、矛盾を深めていく。

3 時間的転嫁-「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
化石燃料の大量消費が気候変動を引き起こしているのは間違いない。とはいえ、その影響のすべてが即時に現れるわけではない。ここには、しばしば何十年にも及ぶタイムラグが存在するのだ。そして資本はこのタイムラグを利用して、すでに投下した採掘機やパイプラインからできるだけ多くの収益を上げようとするのである。

~~~

このあと、第2章ではいわゆる「グリーン・ニューディール」政策では解決にならないと説明し、第3章では、「ドーナツ経済」理論を例示しながら、「脱成長」論へと向かっていく。

「脱成長」というのは新しい概念ではなく、以前にもあった。しかし本書はそれを「楽観的脱成長論」だと斬る。

~~~
「資本主義の矛盾の外部化や転嫁はやめよう。資源の収奪もなくそう。企業利益の優先はやめて、労働者や消費者の幸福に重きを置こう。市場規模も、持続可能な水準まで縮小しよう。」

これはたしかにお手軽な「脱成長資本主義」に違いない。だが、ここでの問題は、利潤追求も市場拡大も、外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も、資本主義の本質だということだ。それを全部やめて、減速しろ、ということは、事実上資本主義をやめろ、と言っているのに等しい。

「脱成長」は平等と持続可能性を目指す。それに対して資本主義の「長期停滞」は、不平等と貧困をもたらす。そして、個人間の競争を激化させる。
~~~

第3章のラストはこう締めくくられる。
「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ。」

ということで138ページ読んだ後にようやくマルクス登場。
なんか、お芝居を見ているような感覚でぐんぐん読み進めてしまいました。
第4章「人新世」のマルクスのところからがこの本の主題なので、それは読んだ人に任せるとして。

読んでいて圧倒的な絶望と共に、光を感じるような本でした。
90年代に環境を学んでいた時、そこにはただただ絶望があった。
「もう、間に合わないのではないか」と何度も思った。

僕が結論したアウトプットは、
「生命の循環の中に人を入れる」という農的暮らし体験の場「まきどき村」だったのだけど。

あれから20年以上が経ち、この本に光を観る。

脱成長コミュニズムに柱として、斎藤さんは5つ挙げる。
「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャルワークの重視」
これは、自然豊かな小さな自治体でこそ、始められるのではないか、と思う。

この本の最後のほうに出てくるアメリカのかつての自動車工業都市「デトロイト」の事例。

自動車産業の衰退によって失業者が増えて財政が悪化し、2013年に破綻。街から人が消え、治安が悪化し、荒廃した状態の中から、都市再生の取り組みが始まった。そこで始まった取り組みのひとつが都市農業であるという。

野菜の栽培、ローカルマーケットでの販売、地元のレストランへの食材提供といった形で、住民のネットワークが再構築されていったという。もちろん、新鮮な野菜へのアクセスは、住民の健康維持にも貢献する。

~~~
うわー、まきどき村やるときに大きな影響を受けた「種をまく人」(ポールフライシュマン)の世界がまさにアメリカに実現してたんだ、ってちょっと感動。

そんなふうに取り組む小さな都市が連帯していくことだと斎藤さんは言う。
それでなければ、気候危機は乗り越えられないと。
むしろ、気候変動対策を柱に連帯できるのではないかと。
日本の小さな町だって、世界中の都市と連帯できる。

2014年「消滅可能性都市」が話題となった。
少子化によって、次世代を確保できなくなる都市という意味だった。
その多くは、主だった産業がなく、都市に人が流出してしまう町だった。

柏崎市高柳荻ノ島集落で「現代の百姓」を名乗る橋本くんを見ていると、
アップデートし続ける「百姓」という感覚と、コモンズ(共有財産)再生とが
合わさっている強さを感じる。

「消滅可能性都市」はそのまま「コモンズ再生可能性都市」へと変貌できる。

それがこの本に僕が見た光なのかもしれない。

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Posted by ニシダタクジ at 08:25│Comments(0)日記
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