2021年06月06日
「応える」べき問い

「自由になるための技術リベラルアーツ」(山口周 講談社)
山口さんの前著「ビジネスの未来」の問い、
「ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?」
もすごかったけど、今回も、問いがすごいなと。
「アートの目的とは、問いを投げかけること」
だとすれば、山口さんの本はアートだなあと思います。
今回もラストに、前著を踏まえてのシビれる問いがありました。
「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」
たぶん、この問いに応えなければ生きていけないのだろう。
それは「答える」のではなくて、まず「応える」んだ、と。
「まなびの場」に携わるということは、この問いにひとりひとりがまずは応えなければならないのだろう。その先にひとりひとりの、あるいは共同体としての「答え」があるし、その「答え」は仮説に過ぎず、実践の中で試行錯誤していきながらブラッシュアップされていくのだろう。
この本も素晴らしいエッセンスにあふれています。
少しだけ抜粋しますと
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量的なモノサシではなく、数値化できない一人ひとりのコナトゥス、自分が自分らしくいられることや、自分の心が生き生きと躍動する感覚など、もっとも大切な価値を発揮していくこと。
早く見つけ、遅く行動し、粘り強く主張し、潔く譲歩する。(イギリスの知恵)
文明は取り入れてきたけど、文化や精神性は変えずにきたというのが遣隋使時代からの日本のあり方。
リベラルアーツの「リベラル」は非規律、非訓練、非体系化という意味。
ハーバード大学は牧師養成から始まった。牧師にはリベラルアーツが不可欠。教会に来るあらゆる人々に説教しなければならないからだ。
修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。自分を捨てて、自分のことがわかるまで至ること、そのためにリベラルアーツがある。セルフアウェアネス。それこそリーダーにもっとも必要なこと。
儲からないかもしれないけれど正しい、好きだということにおいてイノベーションが起きるわけです。
そう考えると起業家精神とは価値判断のことなのだとも言えます。客観的なデータではよくないと出ているが、主観的に「これは絶対に善い」と判断し、その責任を取る覚悟で新しいプロジェクトが実行できるかどうかです。
PDCAではなく3つのP
まず、過去のデータを用いて、過去の延長がどうなるんかを予測する(Predict)
次に、過去の延長と現実との乖離、「兆し」と呼びますが、これを特定します(Perceive)
そして、乖離が起きている対象に対し優先的に行動を起こす(Prioritize)
という3つのPを継続して繰り返すことが、変化の激しい時代に対応する方法として有効です。
大切なのは、perceiveすること。受け入れること。
兆しを捉えて変化を機会に変えること。
人と話す、本を読む、旅に出る。
この中で旅に出るだけが一次情報に触れることができる方法。
創造性は人生における累積の移動距離に相関する。
目の前の世界を「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアーツはそれを見るレンズとしてもっともシャープな解像度を持っているのです。
リーダーの仕事は異なる専門領域の間を行き来し、それらの領域の中でヤドカリのように閉じこもっている領域専門家を共通の目的のために駆動させることにあります。専門領域外について口出ししないという、このごく当たり前の遠慮が、世界全体の進歩を大きく阻害しているということを我々は決して忘れてはなりません。
東海道新幹線を開発する際、鉄道エンジニアが長いこと解決できなかった車台振動の問題を解決したのは、その道のシロウトであった航空エンジニアでした。このとき「自分は専門家ではないから」と遠慮して、解決策のためのアイデアを提案していなかったらどうなっていたか。そしてまた、今日の世界において「自分は素人だから」という引け目から発言しないことで、どれほど多くの社会変革の契機が機会損失となっているか。
世界の進歩の多くは、領域外のシロウトによって提案されたアイデアによって実現されています。
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いいですね。なぜリベラルアーツなのか?がよく分かります。
そして、今回さらにピックアップしたいのは、ヤマザキマリさんとの対談のローマ帝国の部分。
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「迷惑」という言葉は適切に英訳することがものすごく難しくて、一体、迷惑というのは何なのか、考えてしまうことがあります。迷惑を受けるというのは捉え方の問題であり、現代の日本人は迷惑をかけられることに対して不寛容になっているのではないか。
山口さん:「ローマ帝国のユニークなところはシビライズ(文明化)するけれどカルチャー(文化)は残す、征服した地域の土着の宗教や文化を全部受け入れる戦略をとったところですよね。」
ヤマザキさん:「そうです。「Clementia(寛容)」が帝政ローマの一貫したテーゼでした。帝国のテリトリーを増やすときには、「君たちの文化を壊さないし、信じている宗教をやめろとも言わない。ただローマという文明を新しく受け入れて、舗装道路を敷き、古代ローマの神殿を建ててもらいたい」という姿勢で臨むのです。ローマが提供した文化で属州民に喜ばれたものの代表例が浴場ですね。そういった姿勢が巨大帝国を形成できた要因の一つだったのだと思います。「寛容性」というのはいろいろな意味で強力な武器になり得るのです。
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いやあ、これ。
「探究シフト」の話に通じるよね。
この本にも教育については、以下のような記述があります。
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「役に立つ」と「意味がある」
製造業というのは「役に立つ」ものをつくる仕事で、サービス業は役に立つことだけじゃなく「意味がある」ことやストーリー性といったことが重視されます。
「レヴィ・ストロース以降の文化人類学者が繰り返し証明しているように、人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映している存在です。そう考えるといまの日本人は、戦後の製造業の工場モデルに過剰適応してこういう性質を持つようになった」と説明しなければいけないと思います」
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これ、教育がいまだに製造業を志向しているから、若者が「役に立つ」の呪縛にかかっているのではないか。多様性の許容は「役に立つ」のではなくて、「意味がある」のだし、そもそも「学び」は「役に立つ」から学ぶのではなくて、「意味がある」から学ぶのだよ。
だから「対話」して「探究」しなきゃいけないのだけども。
それを現時点での学校システムと対立構造で語ってはいけないのですよ。(soceity3とか4とか5論みたいに)
「探究」なのか「学習指導」なのか?どっちが大学進学にとって有利なのか?みたいな対立軸で語らずに、ローマ帝国のように「寛容」をテーマにして、文化的にもうまく折り合っていくことが大切なのだろうなと。若新雄純さん風に言えば「創造的脱力」だろうと。
その上で、最初の問いに戻る。
「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」
かつて、ドイツの現代美術家ヨーゼフ・ボイスは「社会彫刻」:あらゆる人々は自らの創造性によって社会の問題を解決し、幸福の形成に寄与しなければならない。と語った。(本書より)
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「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」
この問いに応えるためには、私たちは「そもそも人はどのように生きるべきか?」「良い『生』あるいは『社会』とはそもそもどのようなものか?」という問いに対して答えなければなりません。
社会彫刻という言葉になぞらえて表現すれば、どのような社会をつくりたいのかという「作品の構想」を描くことが必要になるのです。このような問いに対して答えを出そうとすれば、そこには自ずとリベラルアーツが求められることになります。
なぜなら、このような大きな問いに対して答えを出そうとすれば、いま現在私たちが依存しているシステムをいったんは相対化しなければならないわけですが、そのような相対化の技術こそ、まさにリベラルアーツが提供してくれるものだからです。
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壮大な問い、しかし、答えなければならない、いや、まず「応えなければならない」問いが目の前にある。
僕たちはひとりとして、また共同体として、この問いに応えなければならない。
学校とは、探究とは、学びとはそもそも何でしょうか?
ビジネスゲームが終了した社会において、学びはどんな意味を持つのでしょうか?
なんのために学ぶのでしょうか?
そのために地域は、地域の大人は、地域資源は、何ができるのでしょうか?
大人たち自身も、何を描き、どんな道を歩んでいくのでしょうか?
実は僕たちもわからないんだ。だから、多様な15歳がこの町に必要なんだ。
大人も子どもも高校生も、多様が集まる「場」と「機会」をつくるんだ。
本日「地域みらい留学」合同説明会2日目です。よろしくお願いします。
https://c-mirai.jp/schools/18