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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年06月23日

ともに、つづく


「菌の声を聴け」(渡邉格・麻里子 ミシマ社)

7年前に、「田舎のパン屋が見つけた腐る経済」を読んで衝撃を受けて、
すぐに会いに行ってしまったタルマーリー。

イタルさんにお会いして、智頭町への移転とビール造りの話をした。
僕が20代の頃ビール屋さんにお世話になったこともあって、少しだけ話題について行けた。

その時の日記。
http://hero.niiblo.jp/e454625.html
(軽やかなる革命 14.10.18)

読書ブログはこちら
http://hero.niiblo.jp/e449775.html
(休みとは、休むためではなく感性を磨くためにある 14.8.1)

その後、16年には智頭町にお邪魔して、パンを頂いた。

写真は麻里子さんと。

今回のこの1冊を読んでも、やっぱり「カッコいいな」と思う。
なんていうか、軽やかなんだよね。
そして、軽やかでありながら、源流を追い求める姿勢がすごい。

今回は、小麦の話をご紹介します。
第五章 11 パンの源泉1 原料より

~~~
私はパンの源泉に気づくまでには長い時間がかかった。それは修業時代から「それだけで美味しい」と感じられる完成形を目指す癖がつき、その流れに乗り続けていたからだと思う。

このように完成形を目指してきた日本のパンは、さまざまな料理と一緒に合わせるという文化を育ててこなかったように思う。そして源泉であるパン生地の基本材料を追求するよりも、菌の純粋培養技術や、製パン性を高める小麦の製粉技術や品種改良といった方向に向かった。

そもそもの製粉やパン作りの源流は、「土からの恵みである小麦を、粒のままでは消化しにくいから粉にして美味しく食べる」というものだったはずだ。しかし資本主義社会は、「できるだけ速く製品化できる製パン性の高い小麦粉」という目的地へと流れを変えた。純粋培養菌による速い発酵に対応した製パン性が高い小麦粉とは、「非常に細かく粒度が揃っていて早く均等に水が浸透する、かつ酵素が失活した状態」という結論になった。いわば小麦粉も動的ではなく、静的な状態が好ましいというわけである。
~~~

そして12 技術と道具より

~~~
タルマーリーのパンとビールを完成させるためにも機械化は重要だが、生産性向上のための機械が氾濫している中で、機械選びには慎重になる。かぎられた資金で、私が機械に求めるのは汎用性があるかどうかだ。

私はこれまでの経験から、人間の手の延長という感じの機械を使いたいと思う。日々のモノ作りで、環境の変化を感じながら、仕上がりがブレる原因を五感で感じたいし、私とモノの「あいだ」に入る機械に、五感を邪魔されたくないからだ。
~~~

いやあ。
すごいですね。
カッコいい!!
って叫びたくなるような1冊です。

今週末のオンライン劇場ツルハシブックスのテーマの1つが
「自分の軸」なのだけど。

学校や、仕事や、人生という短い時間軸で考えるのではなくて、
イタルさんのように、動いていく中で源流を見つけていくこと。
モノや道具の「そもそも」を考えること。

そして、自分の人生よりもずっとずっと長い
「営み」という時の流れにに身を委ねてみること。
そこから始まるのかもしれないと思った。

最終的には、自分の感性にたどり着くのだけど。
この本はパンの話だけれど、「学び」にも共通するものを感じる。

共同体が共同体として生き延びるために「学び」があった。
ひとりひとりの個人を共同体の「成員」として育てる必要があった。
共同体のひとつが地域社会であり、老舗商店であり、武士の家系であった。

その「共同体」の規模が「日本」という規模になり、
かつ時間があまり残されていない、という状況の中で、
「効率的に」「均質な人」を育てるシステムが生まれた。

「学び」とは、ある意味「道具」である。
これまでは「学び」という「道具」の役割を特化し、効率化してきたのではないか?

「なんのために学ぶのか?」
が哲学的問いではなく、功利的な問い(これを学ぶとどんなメリットがあるんだ?)に
なってしまったのではないか。

汎用性のある道具としての「学び」
それは人間の五感を妨げない。

共同体が生き延びるため、創造的な何かを生み出すために、ひとりひとりの感性を活かす道具として「学び」がある。
その創造のエッジに、個人のアイデンティティが形成されていく、というのは僕の持論ですが。

イタルさん、マリさん、ミシマ社さん、素敵な本をありがとうございました。

「ともに、つづく」
そんな言葉が浮かびました。

「自分の軸」の、「自分」も「軸」も忘れて、
まわりとともに、つづいていく営みの中に身を委ねていく。
感性を研ぎ澄まし、技を磨き、何かを生み出す。
その繰り返しがつくっていくもの。

それを見てみたいのです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)学び