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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年06月07日

二人称的アプローチとアイデンティティ


「学びの脱中心化~知的冒険としての学校教育研究」(田本正一編 大学図書出版)

いつも素敵な本を紹介してくれる小林さん、ありがとうございます。前回の「高校教員のための探究学習入門」に引き続いて、この本。勉強家の先生は、こういう本を読んでいるんだなあと。

面白いです。各パートの「はじめに」に書いてある理論がめちゃめちゃ面白いです。実践のところはパラパラっと読み飛ばしていますが、ワクワクします。さすが「知的冒険」

「正統的周辺参加論」とかは大学のインターンシップや課外(地域)活動などの文脈でも使われている先生いましたが、本買っただけで読み進められず、今回この本で初めて理解しました。ありがとうございます。

まずはそもそも、学びとは、コミュニケーションとは?
のところから。(まえがきと第1章より)

~~~
人間の知性を内面にとどめるのではなく、身体から観客、さらには他者との協働によって、外部との相互作用の中に認める。したがって、知識や技能、能力は個人の内面に認めることはできないと考えるのである。

一般的には行為は自律した個人の意志によって決定されると考えられている。しかし、状況論では、行為は状況との相互作用によって決定されると捉えるのである。行為が状況を構成し、一方で状況が行為を決定するのである。

コミュニケーションは、他者、社会、環境との関係性で成立するもので、個々の内的で皮相的な知識や能力だけでは成立しないのである。

語源は、激しく揺れ動く現代社会で視点を失わないための大切な「定点」である。言葉が生き方・考え方として文化を最もよく伝えるものであるとすれば、語源はその発想を最もよく表すものであるからである。語源を知ることによって、中核的意味とたまなく変化する表面的意味の距離をはかることができる。

コミュニケーションは他者との関連性、集団内での相互の関連性で成立するもので、個と個、個と集団、集団と集団間での行為である。それは一方的な伝達行為ではなく、また、相互伝達行為であっても、他者や集団、環境との関連性を認識したものでなければ、適切なコミュニケーション行為とはいえない。

つまり、コミュニケーションとは、コミュニティにおける行為であり、コミュニティとの関連性で成り立つものである。コミュニケーション力は異文化対応力、異文化適応力と捉えることができる。
~~~
なるほど。
「コミュ障」とか「コミュニケーション力がない」っていうのがおかしい表現であることがわかりますね。


そして、「正統的周辺参加」のところ
第5章「ラーニング・パートナーとの協働的な学び(野田英樹)」より

~~~
状況論によれば、学びは他者や道具と相互に関わりながら具体的な文脈の中で成立するものであり、特定の状況を無視しては成立しないとする。また、あらゆる言葉や行為は状況に埋め込まれており、特定の行為は特定の状況においてのみ意味や価値を持つとみる。もし状況が異なれば、同じ行為であったとしても、その意味や価値は異なるのである。つまり、状況と切り離してそれらの意味や価値は決定できないのである。さらに、行為も状況も構成したり強化したりすることから、行為と状況は相互構成的であるとする。

状況学習論は、学びとは参加を通して何者かになること、つまりアイデンティティを形成することであるとする。実践の共同体への周辺的な参加(新参者)から、十全的な参加(古参者)へと成熟していく過程においてアイデンティティが形成されることこそが、学びであるとするのである。正統的周辺参加論といわれるこのような考え方は、従来の学習観とは大きく異なる。刺激と反応に基づく学習論や、個人単位で効率よく情報処理を行うことが学習であるという立場とは明らかに異なるのである。

正統的周辺参加論に基づき、新参者としての市民から、少しずつ熟練者としての市民へ市民らしく成長していく過程は、大人同様市民としての言動や振る舞いを身に付けていく過程とも言えよう。換言するならば、より良い社会築いていくことができる適切な行為や言動を身に付けた、市民社会における市民としてのアイデンティティの形成していくような学びである。
~~~
出てきました、アイデンティティ。
ここで注目したいのが「実践の共同体」という表現。

今まで、「共同体」を静的なものとして捉えすぎていたかもしれない、と。動的なものとして共同体を捉え直し、新参者としてその共同体に参加し、行動を積み重ねる中で少しずつフルメンバーになっていくこと。
それってどんなシーンでも起こり得るなあと。

そして今日のメインは第8章「学びの基盤としての二人称的かかわりとその阻害(山信史子)」。
これ、かなりキマした。

~~~
異なる歴史的、文化的背景をもつ者同士が、様々な共同体の中で互いを作り上げ、よりよい未来を創造していくためには、「あなた」と「私」という二人称的なかかわりを基盤とした対話が必要である。そして、その場その時の対話によって生み出され育まれるものは、「あなた」にも「私」にも還元することはできない。それは自己と他者、そしてそれを取り巻く環境との相互作用によって、共に作り上げたものであるからである。知識や学力もまた、このような関係性の中に形成されるものであって、いずれか一方の還元されるものでも内化されるものでもないのである。

高等学校では(中略)大学入試や就職試験などのゴールに向けて知識を内化することが学習であり、各学校が特色に応じて生徒の進路実現を果たすことを使命としている。そして多くの教師がこのことを無自覚に受け入れている。どのような力が身についたかということよりも、どれだけ高い点数を取らせることができたかが焦点化され、生徒と教師のかかわりは三人称的である。

二人称的アプローチを学習の場で捉えたとき、キーとなるのは「情動をもったかかわり」「応答性」「対話」「共有」である。「対話は、台本を書くことも、あらかじめ決めておくことも不可能である。対話のなかには、そこにかかわる人が誰も知らない道を歩んでいくという可能性を秘めている」対話が「真正」であるためには、双方の対話に「他者に聞き入ることと応答することの誠実さ、さらに、予想もしない結果に開かれることの勇気」が必要であると述べている。

自己と他者、自己と環境とが共に世界を作り上げていくことによって、新しい世界が構成される。それは対話的な学びによって可能になる。つまり、学ぶということを通して人間は自己を変容させ、新たな世界を形成していくようになるのである。そこで重要になるのが他者の存在であり、対話である。自己と他者ととが、互いに情動を伴った応答をしながら対話に没入し、互いを非主題化していく過程は、ソクラテスの時代にまでさかのぼる。

真なる対話による学びとは、「あなた」と「私」という二人称的かかわり学習によって果たされるのである。

文化は、あるありようであり続けるためには、対話とともに、かかわることが必要である。さらに対話とかかわりは、それは必然的に文字化できないし、オープンな(開かれた)ものであり、文化的実践を固定し持続させると同時に、それらを変えるものでなければならない。学びを文化的実践と捉えるならば、対話と情動的なかかわりによって、自己と他者、そして環境のあり方そのものが作り変えられるのである。ここに「二人称的アプローチ」を学習に援用することの意義を見いだすのである。
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ううう。うなりますね。二人称的アプローチ。
昨日のブログの「応えなければならない」というか、そういう感じ。
「対話」の重要性も、予測不可能性という面白さも、すべてつながってくる。
学習空間における「疎外」とは、まさに三人称的な関係性の中で起こるのではないかなあと。

その原因はおそらくは「効率化」でしょうね、と。
二人称的アプローチ、つまり「対話」とかって、非常に非効率だし、厳密に文字化はできないし、非科学的で、非効率的ですもんね。

山信さんは評価についても、次のように語る

~~~
「現在行われている学習評価は、学習の責任は子どもたちの努力の度合いに還元されることを意味し、数値によって測定され序列化されることであるという排他的な競争原理を表している。また評価は客観的なものでなければならないという考え方も根強くある。

だが、ここで本当に考えなければならないのは、評価の客観性ではなく学習における評価の妥当性、信頼性であり、それが誰にとって果たされるべきなのかということである。

学習の成果は生徒の側にも教師の側にも還元できるものではなく、互恵的関係性の中で生み出されるものである。それは生徒と教師、あるいは生徒同士の二人称的かかわりや、環境との相互作用を通してはじめて立ち現れるものである。
~~~

それそれ。そもそも、何のために「評価」があるのか?
麹町中(当時)の工藤校長のように、その問いに立ち返らないと行けない。
それを考える時に学びは誰のものか?という根本的な問いにも突き当たる。

学びは「場」に創造される。
その学びは必ずしも個人に還元されない。

昨日の地域みらい留学オンライン合同説明会でもたくさんの高校が、
「こんな環境で、こんな授業で、こんな地域の人と一緒に学びませんか?」と呼びかけた。
「都会の高校に行くより楽しいよ」と。

それはもちろんそうなのだろう。
またはそのような学校を創造するべく歩んでいるのだろう。

しかし。そもそも学びは誰のモノか?を考えるならば、学びの目的までさかのぼるならば、それは共同体が(実践の共同体)運営・維持・発展するため、ということになる。(共同体の時間軸は多様で、ひとつひとつを動的なモノとして捉えたほうがよさそうではあるが)

だから。
「この学校に来れば、こんな環境があり、地域の大人がいて、ここで学ぶことで、あなたはこんな卒業生に成長できる。」
っていう文法ではなくて、

あなたと、わたしと、他の生徒と、地域の人と、地域の環境と、高校や中学校と、従来的な学校システムと、、、

そのあいだに「場」をつくり、まなびを創造しよう、と。動的な共同体における1メンバーとして周辺的参加者から中心メンバーへと歩んでいこう、と。

その「まなびの創造」のエッジに、あなたとわたしのアイデンティティが形成されていく。
まあ、これは仮説だけどね。

一緒にまなびをつくらないか?
と呼びかける、そんなプレゼンテーションができたらいいのだけどなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)