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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年04月01日

哲学と芸術と宗教のあいだ

オシャレ本屋、セレクト本屋に、
「哲学本」が多く置かれるようになったと思います。
「哲学的」なるものに
対して、多くの人が関心を寄せるようになりました。

自分とは何で、どこへ向かうべきか?

先行きの見えない今の時代に
多くの人々が問いかけています。


「ルノワールは無邪気に微笑む~芸術的発想のすすめ」(千住博 朝日新書)

この本で千住博さんは言います。

~~~ここから引用

芸術とは要するに「オレの叫びを聞いてくれ!」
ということです。
これは「オレの叫び」ということと、
それを「聞いてくれ!」ということに分かれます。

どんな人でも、
何かしらいいたいことは心の内にあります。
しかしそれを他人に聞いてもらうには、
いささかの経験と技術が必要なのです。
そのやり方、意識を学ぶ、ということが美術大学の役割なのでしょう。

~~~ここまで引用

なるほど。
芸術とは、自分の中にある衝動
すなわち「叫び」を絵画や音楽や料理に
落とし込んで、表現することなのだと千住さんは言います。
「イマジネーション」を「コミュニケーション」することだとも言っています。

この「叫び」の部分を探るべく、
人は哲学するのだと思います。

私は大学生の時に
筑波大学の橘先生が主催している
「つくば有機セミナー」というものに、
2か月に1回くらいお邪魔していました。(新潟からです)

先生の取り上げる題材は
宮崎アニメだったり、宮沢賢治だったりするのですが、
それをどう読むか?は
まさに哲学の授業そのものでした。

そしてそれは今風に言えば、「アクティブ・ラーニング」と
呼ばれる、双方向な場で行われました。

私の心を捉えたのは、
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」でした。

~~~ここから冒頭部分を引用

序論
われらはいっしょにこれから何を論ずるか

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

~~~ここまで引用

もし、宮沢賢治の名前を出さずに、
この文章だけを読んだなら、
多くの人は、「宗教的である」という印象を持つのではないでしょうか?

そして、いま、「宗教的である」というのは
マイナスのイメージを持って、伝わります。
ある種の嫌悪感をもって、語られます。

これは、おそらく、
20年前のオウム真理教事件からではないでしょうか?
私は当時、20歳の大学1年生でした。

あの日を境に
「宗教(特に新興宗教)=悪(である可能性が高い)」
というような図式が世の中に出来上がっていったのではないか、と感じます。

その後、私はもともと環境問題に関心があったので、
とある環境NGOの活動に熱心に取り組みました。

そのNGOの代表は、
非常にカリスマ度の高い方で、
多くの熱狂的ファンが付いていました。
1年間、全国の取組に参加させてもらい、
研修合宿にも出ました。

すると、大学の同級生は
その活動を「宗教的である」と評価していたのです。
何らかの信念があり、そこに向かって賛同者を集める行為
はみな、「宗教的である」と言えるかもしれません。

1年後、僕は強烈な違和感に襲われます。

「環境問題を解決する」
その目的のためには、
日常生活から環境に配慮した生活者を増やすことが大切。

しかし、環境NGOの人たちの活動は
なにか「宗教的」でちょっと近寄りがたい
結果、環境への配慮はされず、問題が放置される。
全然、問題が解決されていかないじゃないか!とショックを受けました。

と同時に僕には
「カリスマなるものへの不信」が生まれました。
カリスマは、集まる人の思考を停止させます。
そのカリスマに従っているほうが心地よく、楽だからです。

それは宗教と同じだ、と思いました。

教祖様の言うことを絶対的に信じ、
思考停止すること。
実はそれこそが悪なのではないか、と思うのです。

価値観は多様化している、
と言います。
それは本来は自分で考え、自分の価値観を
形作っていくということです。
誰かひとりのカリスマの話を盲信することではありません。

だからこそ、いま多くの人は、
哲学の本を読み、問いを立てているのだと思います。

ツルハシブックスというプラットフォームは、
双方向の学びがある場にしたい。

「オレの叫びを聞いてくれ!」
という人が、叫びを双方向にやりとりできる場にしたい。

そのために、僕は
「劇団員」という仕組みをつくることにしました。
月額1,000円のツルハシブックスの応援団
のようなものです。

もともとは昨年3月の
ツルハシブックス公開経営会議で参加者から出たアイデア
「ファンクラブ的なもので払えるようにできないか?」
というところから始まっています。

「劇団員」という仕組みは
非常に宗教的です。

僕自身が信じる世界を表現したものです。

もし自分が、
ツルハシブックスのレジに立っているとき。
ドアを開けて誰かが中に入ってきます。

そのとき、
レジに立っているのが店員であれば、
「あ、お客様が入ってきた」と思います。

しかし、
レジに立っているのが劇団員であれば、
「お、共演者が入ってきた」ということになります。

そのあとの対話は、
全然かわってくるでしょう。
毎日を即興芝居のように生きる「劇団員」という生き方。

そんな生き方は素敵だなあと思い、
自分もそんなふうに生きたいし、
ツルハシブックスにいなくとも、
世の中を大きな劇場と見立てて、演じていきたいと私は思っています。

この考え方は「宗教的」であると、
私は思います。

しかし、
宗教的なものが悪いのではなく、
(私の考えでは、)
思考停止が悪いのです。

だとしたら、
思考停止させない宗教というのもあり得るのではないか?

ツルハシブックスの「劇団員」制度は、
きっとそういうこと。

「哲学」と「芸術」と「宗教」のあいだに、
つくっていきたい何かであると私は思います。

東京・練馬でスタート予定の
「暗やみ本屋 ハックツ」も
劇団員の力をお借りしながら、
みんなで作り上げていきたいと思います。

※クラウドファウンディングに挑戦中です!(4月30日まで)

https://readyfor.jp/projects/hakkutsu

※第2期劇団員を4月30日まで募集しています。
http://tsuruhashi.skr.jp/boshu

※本の寄贈、自宅の古本による寄付、寄付侍はこちらから。
http://tsuruhashi.skr.jp/kifu  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記