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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月06日

プロジェクトという「庭」づくり

2年間ふりかえりシリーズ
2109年10月~12月

10月、公営塾研修。
藤岡さんの総合型選抜についての話。

大学=研究機関:分かっていないことを研究する
⇒推薦・総合型選抜でも見るのは、「学生」をやれるかどうか?

学生とは?
「研究=自ら物事を突き詰めて明らかにする」ために
自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定し、
その課題を解決するために、自分で動ける人が求められる。

自律的に研究できる⇒プロジェクト設計力
PBL=プロジェクト学習の重要性
学力の3要素⇒PBLで身につける⇒地域という題材が必要

11月、読書月間
橘玲さんの「人生は攻略できる」
いいなあ橘さん。
自己啓発本にまみれて売れるようなタイトルをつけるという美学。

「やればできる」ではなく、「やってもできない」を前提に人生ゲームの戦略を立てる。

~~~ここから引用

「圧倒的な努力」ができるのは好きなことだけ。

最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。

~~~ここまで

「スピリチュアル」つまり感性のこと。それはトライアンドエラーの中から何かを見つけてくれる。

あとは、仕事の3種類:クリエイター、スペシャリスト、バックオフィス。
バックオフィスだけは仕事=会社名となる。

あと、毎度出てくる伽藍とバザール。

インターネットは伽藍の壁を破壊しつつある。「伽藍(がらん)」とは、寺院にある門のように、外界と遮断する壁の内部のことだ。かつて会社は、そして地方は、さらには地域社会は、伽藍の中にあった。

そこでのゲームのルールは、橘さんのいうように「ネガティブゲーム」だ。「失敗をするようなリスクを取らず、目立つことは一切しないこと」。失敗すれば、不義理をすれば、そのネガティブな評判は一生ついてまわる。

その壁は、破壊されたのだ。あるいは、破壊されつつあるのだ。世界はバザールに向かっている。

バザールとはオープンな市場だ。誰かが珍しい良いものを売れば、それが評判を生んで儲かっていく。粗悪品は評判によって淘汰されていく。よいものはよいフィードバックがなされ、評判資本が増える。たぶん、そんな社会へと変化しつつあるんだ。

大切なことは「地域の課題解決」なんかじゃなくて、高校生ひとりひとりのスピリチュアルが「これだよ!」って思える題材に出会えること。課題解決は目的ではなく結果だし、単なる機会にすぎない。それを「伴走」ではなく、「伴奏」するようなかかわり。

高校生に伝えたいこと。

与えられても与えられていなくても「機会」の中で自らの「違和感」をキャッチし、それを深めていく中で「これだ!」って思える題材に出会い、好奇心を原動力に深めていくことによって、自分が信じられる「価値」に出会うこと。

~~~ここまで

11月の連休中は、正徳館高校に長谷川さんの講演を聞きに行きかき氷を食べて、
その後、黎明学舎体験合宿+公開ミーティングでした。

http://hero.niiblo.jp/e489973.html

キーワードとしての「かかわりしろ」を増やす、とか、地域内でも、関係人口的なアプローチが有効なのかもしれない。
・労力を出す・道具を出す・お金を出す・情報を出す(アイデア、人を紹介)みたいなメニューの設定。

「勉強」と「部活」という価値観。数値化され、序列化される価値。そこにはやはり、「効率化」という工業社会の要請があった。そもそも学校は「最小の労力で、(工場労働者として)一人前の人材を育てる」という「効率化」というコンセプトで始まった。おそらくは社会全体が「効率化」という価値観を信じた。

「効率化」とは、「価値の一元化」そしてそれによる「序列化」のこと。数値化し、量的に見るということ。その前提が崩れ去っている。価値は常に流動し、しかもそれは同じモノサシでは測れない。そのほうがよっぽどリアルで、量的な指標しかない社会のほうがパロディに思えてくる。

誰かが設定した価値に対して、量的に反応して一喜一憂するのではなく、自らが価値を設定し、それを分かち合える仲間とチームを組み、その価値に共感してくれる人に商品やサービスを届ける。それを作っていかなくてはいけない。

「ギャップ萌え人材」「〇〇探究芸人」をつくっていくこと。

大学入試でさえも、推薦・AO入試という「バザール」に向かっているのだ。
トライアンドエラーで一発当てる、っていうポジティブゲームを展開しないといけない。

~~~

上野千鶴子さんは「学校化社会」を次のように断じる。
http://hero.niiblo.jp/e484636.html

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

~~~

そして、映画「Most Likely To Succeed」上映会
http://hero.niiblo.jp/e489987.html

「教育はガーデニングに似ている。」

その種が、何の種なのか、わからないのだ。だから、まず、植えてみるしかない。それが「プロジェクト」という小さな庭なのだと思った。

土壌によって、気象環境によって、また一緒に育つ相手によって、その庭の出来は決まってくるし、自分自身がどんな花を咲かせるのか、また、咲かせようとワクワクするのか?が決まってくる。

みんなでいい庭をつくろうと、チームビルディングをする。

そんな庭をたくさん作ること、なのではないか。そして、その子がどんな種を持っているのか、興味深く見守ること、なのではないか。そしてそれを自らも庭の一部としてデザインすること、なのではないか。

これからやることは、「庭づくり」。

全員にキレイだねとは言ってもらえないかもしれないが、野菜も花も、皆それぞれが咲き誇っている庭を見ながら、その庭で取れた野菜のたくさん載ったスープカレーを食べたいなと思った。

~~~

そして、浦崎先生の講演会を初めて聞きました。

人間には容易だがAIには困難なこと
1 現場で「感じる」こと
2 問いを立てること
3 意味を味わうこと
→探究(自問自答)によって

・課題発見(問い)には、現場(地域)で感じることが必要
・感性には個性→探究テーマは高い個別性

~~~

さらに高校の生徒会による高校説明会初参加。
五泉高校のプレゼンが圧倒的に素晴らしかった。

まず、プレゼンの主語は誰なのか?
「学校」なのか、「わたし(生徒自身)」なのか。
これは全然違うよね。半数くらいの高校が「学校」を主語にして話していた。

そして五泉高校はさらにその上をいった
1 総合高校だから「個別最適化」できる:資格もとれるし進学もサポートしてくれる
2 先輩たちがやさしく「コミュニケーション」してくれる
3 地域を題材にチャレンジできる

これは今年の秋に復活したら意識しようと。

~~~

そして大崎海星高校と嶺北高校の視察・見学

大崎海星高校
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

嶺北高校
http://hero.niiblo.jp/e490024.html

大崎海星高校コーディネーターの取釜さんの
私塾での取り組みが出発点だった。
「やりたいイベント実行委員会」
中学生高校生が自主的にイベントを企画・実行する掲示板。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。はじまりはひとりかもしれない。でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

~~~
嶺北高校の探究の授業には度肝を抜かれた。

瀬戸さんは「次に会うときには別の人になっているという前提で授業をする」それはおそらく瀬戸さんにとっても。

来週の授業に来ている生徒は、今週とはまったく別人なのだ。その前提で、授業をつくる。ふりかえりをつくる。ライブ。瞬間瞬間

この授業は、瀬戸さんにしか作れないと思った。いや、本来はどの授業も、その人にしか作れないんだ。

瀬戸さんが言ってた。「目の前で変化している人の変化を見逃さずに済む。」

それを見ているんだ。ひとりひとりの「変化」そのものを。

瀬戸さんのNPO法人SOMAが運営する地域の学びの場「あこ」が本当に子どもから大人までが集って学んでいて、すごい場所だった。あれ見たら、僕が中学生だったら入学するよなあと。

エコシステム(=生態系)とそこにいるひとり。
という視点。

個の存在を意識しながら、学びのために環境(場)にアプローチすること。「承認欲求を満たす」というよりも「あなたを見ていますよ」というメッセージを言語外で伝えていくこと。そういうかかわり。

授業も、場も、エコシステム(生態系)ではないのか?

そんな深く、重い問い。再現性なんて、やってみないとわからないけど、誰がやっても同じ結果には絶対にならない。そして、環境も、そこにいる人ひとりひとりも、常に変化し続けている。それを感じながら、「学び」をつくっていくこと。「場」をつくっていくこと。

その「場」を見て、感じて。中学校3年生が直感で「ここにしよう」って決められるような。「ひとめぼれしました」って言ってもらえるような。

そんな「場」がつくれるか?にかかっている。

~~~
これだよね、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが目指す「場」は。
まだまだ、これからだな。

11月のラストは
泉谷さんの「普通がいい」という病

http://hero.niiblo.jp/e490011.html
「頭」と「心」「体」についての関係性がわかりやすい。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

うーん、まさに。

~~~

イオン亀田でむかごジェラートを売っていた11月のラスト
そして迎えた12月。

一度行ってみたかった栃木の非電化工房へ。
月3万円ビジネスの著者フジムラさんの遊び心が詰まってた。
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

そして、それと合わせて
KJ法生みの親、川喜田二郎氏からの学びを。

~~~

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」では、「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

~~~

デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場の価値。それは「創造」が起こること。それにより自己が変容すること。

そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?
そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。

そんな「場」をともにつくる。

~~~

これも深いですね。
初めににあるのは「我」ではなく「混沌」である。

12月14-15日はマイプロラボ新潟初開催でした。
「やりたいことは何か?」っていう問い自体が人口流出の原因じゃないか?
って思った。

もっとそもそも「仕事」とは?
わたしにとっての「価値」とは?
って聞かないといけないよね。

12月21日からは清川で温泉カフェをやっていました。
コーヒー焙煎楽しかったなあ。

そして公民連携ミーティングに出て山倉さんの話を聞いて、
その後、阿賀町で山倉さんのレクチャーを聞く。

はちみつ草野の
★「はちみつには使命があります」
★あなたにも使命があるんじゃないか?って問いかけてくる。
っていうのが衝撃的だったなあと。

このまちの使命はなんだろう?
ですね。

やっと、2019年おわりだ~。
次はいよいよ2020年。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)学び足跡日記