2021年01月15日
「なんとなく」シフトふたたび

「わかりやすさの罪」(武田砂鉄 朝日新聞出版)
読み始めました。
面白いですね。
とっても痛快です。
「わかりやすい」ことにどれほどの意味があるのだろうか?って。
「測定可能であること」はわかりやすさの一つでもある。
それだけじゃないひとりひとりとそれぞれの関係性によって
人って変わってくるよねっていう前提でチームを作りたいなと思う。
今日は2か所して紹介します。
1つ目は、「コミュニケーション能力」について。
~~~ここから引用
関西学院大学准教授の貴戸理恵が「コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、能力として個人のなかに固定的に措定すること『関係性の個人化」と呼んでいる(『「コミュ障」の社会学』青土社)。他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、皆が皆、どうしてその能力が私にはかけているのだろうと悩む。無理がある。だって、コミュニケーションは他者との関係性で成り立つのだから、いつだって欠けているはずなのだ。
しかし、とにかく無理解を嫌い、意味のわからないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならなくなる。貴戸の言う「関係性の個人化」によって、私たちは、理由あるもの、有効なものばかりを獲得するようになった。
~~~ここまで引用
そうっすよね。
「コミュニケーション能力」っていう言葉自体がおかしいと。
コミュニケーションは個人に属するわけではないのだから。
これ、「責任の生成」にあったASDの話にも通じるなあ、と。
そしてもうひとつ。
鷲田清一さんの「わかりやすいはわかりにくい?」を紹介して次のように述べる
~~~ここから引用
「何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、『これができたら』という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。自分が『いる』に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的に自分に向けるようになる」(前掲書より)
そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていく上で、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。なぜそのような行動をnとったのかについて、明確な理由を示し、その行動について認可を得なければならない。自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。
~~~
いやあ。そのままズバリですね。
大学生の生きづらさというか、親世代とのギャップってこういうところにあるんじゃないかって思います。
以前に「にいがたイナカレッジ」で講演した時、
「なんとなく」シフトを提唱したことがあったのだけど、まさにこれですね。
参考:(16.6.13ブログ)
http://hero.niiblo.jp/e480075.html
個人としては、「なんとなく」をむしろ推奨していくこと。
内田樹さんが「日本習合論」で説明していた
「理解と共感に基づかない関係性と共同体」を探っていくこと。
そしてもうひとつがやはり「場」にフォーカスしていくことだと思う。
「場」を活動の主体にし、個人は「場」にチューニングし、「場」の構成員としての自分を感じること。
ひとりひとりが「存在の承認」を、いま切実に必要としている。
それは「チームや誰かの役に立つ」という「有用性」や
「〇〇という将来の夢に向かって今は全力でこれに打ち込んでいる」といったような
「わかりやすく夢に向かう自分」によってのみ得られるものではない。
(現実社会はそのようになっているけど)
ひとつひとつのシーンで、プロジェクトで、「なんとなく」やってみる
理解と共感を前提とせず、理解しえないであろう他者と協働してみること。
前回の「アイデンティティデザインの時代」の紹介で、
リーダーシップとはイシューを設定する力であり、
しかもそのイシューは、非目的で他者と関係する活動の中にあるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e491351.html
それって。ひとりひとりの中でも言えるのではないか。
「なんとなく」やってみた中に「発見」があり、「顧客」との出会いがあり、顧客にとっての「価値」を考え、その先に「使命」を知ることになる。
個人としては「なんとなく」、
チームとしては「理解と共感に基づかない協働」、
プロジェクトとしては「場」を主体にチューニングをしながらイシューを見つけていくこと。
現時点ではそのアプローチが、「生きづらさ」に対処する僕の仮説です。