プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 107人
オーナーへメッセージ

スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by LOGPORT運営事務局 at

2021年01月09日

「主体的にやる」と「機会提供」のあいだ

2年間ふりかえり。2020年6月。
休校が明け、怒涛の日々が始まる。

そんなスタートの日に読んだ伝説の講演録
「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)

アツかったなあ。

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

コロナ前後で何かシフトするのか、考えたこと。

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。それは工業を中心とした社会だったからだ。ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。

~~~
「あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマがきっとあるはずだ」
このメッセージは熱いな。
「自らのあり方生き方と一体的で不可分の問い」っていうだけではなく、そこに「現在性」つまり「今」っていうのを加えないといけないのかもな。

「なぜ、いま、あなたからこれを買わないといけないのか?」に応えられないとモノは売れないのだと本屋さん時代に痛切に思った。

これは「勉強」「学び」も「探究」「プロジェクト」も同じだ。なぜ今、自分はこれをこの場であなたから(場・プロジェクトから)学ばないといけないのか?
に応えられない「学び」はもう成立しない。
~~~

このタイミングで「サピエンス全史」なんか、読まなきゃいけないような気がしたんですよね。

ホモ・サピエンスがなぜ地上の覇者になったのか。激しい議論は今なお尽きないが、最も有力な答えは、その議論を可能にしているものにほかならない。すなわち、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のおかげではなかろうか。

集団の限界値である「150人」を超えるための虚構の登場。「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。」

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。

~~~
ウィークリーオチアイでやっていた「sio」の話面白かったな。
「エンゲージメント」とは何か、考えさせれた。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)、1000円の弁当も本気で作る。

~~~
これ、飲食店のリアルだなあと。「商品」ではなく「価値」を届け続けたら、お客とエンゲージメントできるんだなあと。先日の「合理性」の話にも通じるなあと。
サンクチュアリの営業の時も他社の本をよく紹介していたもんなあと。

そして、このタイミングで、夏休みのえぽっく「取材型インターンひきだし」をやるかどうか、っていう決断を迫られて会議をした。

http://hero.niiblo.jp/e490767.html

面白かったのは、「ひきだし」の価値を考えるほどに、「オンラインじゃ再現できないよね」っていうのが列挙されているところ。結局、検討の結果、完全オンライン実施をすることになるのだけど、この当時の葛藤がなつかしい。

1 学生側と企業側のフラットな関係性
・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり
2 会社を「人」から知る
・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。
3 共同生活がある
・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)
4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。
・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

これがオンラインでできるのか?っていう問いじゃなくて、オンラインだからこそできることがあるか?っていう問いに転換した。

~~~

藤岡さんの話を聞いて、思ったこと

大学に入るのも、企業に入社するのも、「乗り物に乗る」ようなものだなあと。もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?みたいなことを確かめるもの。そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。

お互いにね。この人と一緒に船に乗れるのか?っていう。

~~~
で、オンラインツルハシで吉野さくらさんの登場。

「とまれみよ」という動的な屋号。「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。動的な(動きを感じられる)屋号だということ。そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。そういう感じ。
~~~
2020年にインスピレーションのあった言葉のうちに大きかったのがこの「動的な屋号」っていう方法だろうなあと。

次。角田陽一郎さんの「13の未来地図」。よかったですね。
組織⇒バンド、イデオロギー⇒ユーモアへとシフトしていく、と言っています。

これからの仕事における個人と組織の形態はバンドなのではないか?
バンドメンバーは基本的に全員でステージに立ち「替えが効かない」のです。

ここで、素敵な一節を

「ロックバンドが気の合う仲間とともに音楽を奏でるように、あなたがやりたいプロジェクトのための自分のバンドを作るべきだと言っているわけです。」そういう「プロジェクトバンド」経験が就職に効くって言ってます。

ああ、それはあるなって。ボーカルだけじゃなくて、相手によってはギターもベースもドラムもできます。みたいなこともできるし。バンド名を考えたし、作曲も作詞もやったことあります、みたいなのは重宝されそうですよね。でもいちばん自分が好きなのはベースです、みたいな就活。

でも、そもそも、企業ってバンドなのか?みたいなところもあります。特に大企業では難しいかもしれません。「替わりがいること」が最優先されます。やりたい曲もなかなかやらせてもらえないかもしれません。それって、音楽性の違い、なんじゃないか?みたいな気もします。

取材型インターン「ひきだし」のオンラインミーティングで若松さんが「人を通して会社を知る」って言っていたけど、それってまさにバンド選びのようなものだなあと。ただ、もちろん、大オーケストラでしか奏でられない音楽もあって。そういう音楽を目指したい人は大企業にいったほうがいいかもしれない。

でも、音楽性の合う仲間と、バンド組みたいんだよ、みたいな人は、その音楽性を頼りに、会社を選んだらいいなと。

じゃあ、音楽性って何?みたいなときに、それって、ベクトル感だと思うんだよね。メンバーひとりひとりや全体から感じるベクトル感。そういうのを感じられる「就活」ってできないかなあと。

~~~
これ、読み直すとめちゃめちゃ深い。おもしろ。

さらに、「言葉にできるは武器になる」の梅田さんの本「企画者は3度たくらむ」より
http://hero.niiblo.jp/e490791.html

1つ目「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。
ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう

2つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?みたいな。
「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

3つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。
いや、仮説ですけどね。課題とビジョンと、仮説と、打ち手。そのくりかえし。

~~~
「学ぶ環境」の豊かさっていうのは
・資源の豊かさ:くるみやの農作物などの自然資源
・課題の豊かさ:高齢化・猿による農作物被害などの課題
・関係性の豊かさ:地域の人たちが重層的に学びにかかわる。

~~~
そして地域探究系部活動で学んだこと

これまで僕は思っていたのは「主体的である」と「やらされる(主体的でない)」の二項対立。じゃあ、「機会提供」は「やらされる」なのかと言えば、そうでもないと思うし。「最初は先生に言われたので始めました」っていうのは、高校生のマイプロ発表聞いててもよく出てくる言葉だし。

高校生側の感じ方だったり、ひとりひとりに話を聞いているか、ひとりひとりに話しかけているか、だし。もっと大切なのは「ふりかえりをしているか」だったりかもしれないし、こちらが「機会提供」しているつもりでも、高校生は「やらされている」と思っているかもしれないし。その前提となる信頼関係があるかないか、にもよると思うし。

つまり。「主体的である」は「やらされる」と二項対立で考えるものではなく、高校生目線で言えば、「主体的である」と「機会提供」のあいだにグラデーションが広がっているのだと。

やりたいことがないと悩んでいる子の隣に座って、機会を提供する。その提供の仕方もあるよね。ただネタを提供してこちらは見ているだけっていうのは、やらされ感が出る。一緒にやってみる。考えてみる。悩んでみる。

それが大切なのだろうなと。

地域の自然も資源も課題も地域の大人も、自らも独自の楽器をもって学びという音楽づくりに参加する高校生にとっての「学びの伴奏者」であること。学びという営みのプレイヤーとして参加すること。
~~~

まさにこれ。総合型選抜で問われる「主体的に」活動したこと、をどうデザインするか?これはずっと大きな課題なのだろうなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)学び足跡日記

2021年01月09日

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある

2020年5月。

この本に出会っているんだなあ
「世界は贈与でできている」
http://hero.niiblo.jp/e490625.html

なぜ、学ぶのか?なぜ、知性が必要なのか?それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。「贈与を受けてしまった」という自覚からしか贈与が始まらない。生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

~~~
ふたたび安宅さん。
このころニューズビックスの本ばかり読んでますね。

不確実性の4つのレベル
1 確実に見通せる未来
2 他の可能性もある未来
3 可能性の範囲が見えている未来
4 まったく読めない未来

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

具体的な手法
1 大勝負に出る
2 オプションを仕掛ける
3 後悔のない行動をとる

~~~

先端教育5月号から、雑木林の話

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」ってそういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。先生はその見守り人(ファシリテーター)に。地域の人は、雑木の中の1つや動物に、あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。

~~~ここまで

次に大学生の「やりたいことの見つけ方」っていうタイトルへの違和感から

~~~ここからメモ

アイデンティティとコミュニティ
個人戦と団体戦
東洋と西洋
デカルトとスピノザ
計画性と予測不可能性
評価と承認
共感と違和感
自我と共同体
個性の構成員になる
他者と出会う
キャリアデザインとキャリアドリフト
贈与者になる。イスラムとキリスト
手段として学ぶと機会として学ぶ

~~~ここまでメモ

そして、5月から実験的にスタートする「オンライン劇場ツルハシブックス」の企画を考えたのがこのころ。ツルハシブックス閉店のときのコミュニティの閉鎖性について、宮台真司さんが次のように言っていた。
プラットフォームの寿命は2年。2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次のアーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。

まさにこれ。人材募集市場でも起こっていること。

2年で劣化しない「プラットフォーム」「場」「コミュニティ」は可能か?
っていうことで考えついたキーワードは次の3つ。

1 身体性
本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。

2 (半)開放性
「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。

3 (共同体の)多層性
横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。

~~~
さらに、「お金2.0」へ

発展する「経済システム」の5つの要素
生産活動をうまく回す仕組みを経済システムとここでは呼びます。

1 インセンティブ
2 リアルタイム
3 不確実性
4 ヒエラルキー
5 コミュニケーション

1 インセンティブ
現代は生物的な欲望よりも社会的な欲望が目立っていて、なかでも3M(儲けたい・モテたい・認められたい)の3つが欲望としては特に強く、これらを満たすようなシステムは急速に発展しやすいです。

2 時間によって変化する(リアルタイム)
常に状況が変化するということを参加者が知っていることが重要です。人間(生物)は変化が激しい環境では緊張感を保ちながら熱量の高い状態で活動することができます。

3 運と実力の両方の要素がある(不確実性)
自らの思考と努力でコントロールできる「実力」の要素と、全くコントロールできない「運」の要素が良いバランスで混ざっている環境のほうが持続的な発展が望めます。

4 秩序の可視化(ヒエラルキー)
「経済」は実物のない、参加者の創造の中だけにある「概念」に過ぎません。なので、目に見える(数値化される、分類される)指標がないと参加者は自分の立ち位置がわからなくなってしまいます。また、指標が存在することで自分と他人の距離感や関係性をつかみやすくなるメリットもあります。

一方でこのヒエラルキーも、それが固定化されると
2 リアルタイム(時間によって変化)と
3 不確実性(運と実力の要素)
が失われ、全体の活気を失わせてしまう原因にもなる諸刃の剣です。

5 参加者が交流する場がある(コミュニケーション)
人間は社会的な生き物ですから、他人との関係性で自己の存在を定義します。参加者同士が交流しながら互いに助け合ったり議論したりする場が存在することで、全体が1つの共同体であることを認識できるようになります。

追加1 経済システムの「寿命」を考慮しておく
フェイスブックがインスタグラムを買収したように、次の経済システムを用意しておく。

追加2 「共同幻想」が寿命を長くする
参加者が共同の幻想を抱いている場合、システムの寿命は飛躍的に伸びます。全員が同じものに価値を感じれば、実際に価値が発生してしまうのです。共同幻想はシステムに対して自己強化をかけます。
~~~

これ、やっぱりすごいな。意識したほうがいいやつ。
みんな1インセンティブばかり見ているような気がする。

さらに、お金2.0は、「価値」主義の時代へのシフトを語る

~~~ここから
1 有用性としての価値
これはもっともなじみが深く、資本主義がメインに扱う価値です。経済、経営、金融、会計などで価値という言葉が出たらこの有用性・有益性・実用性としての価値を指しています。一言で言えば、「役に立つか?」という観点から考えた価値です。
現実世界で使用できる、利用できる、儲かる、といった実世界での「リターン」を前提にした価値です。なので、直接的に次のお金に繋がらない、現実世界で利用できないものは有用性としての価値はないということになります。

2 内面的な価値
実生活に役に立つか?という観点とは別に、個人の内面的な感情と結びつけても、価値という言葉は使われます。愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす時に、価値があるという表現を使います。有用性としての観点で考えると、個人が心の中でどんなことを思っているのかは関係ありませんし、それらの感情が役に立つといったことはありません。感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

3 社会的な価値
資本主義は個人の利益を追求していくことが全体の利益につながるという考え方です。一方で、慈善事業やNPOのように、個人でなく社会全体の持続性を高めるような活動も私たちは価値があると表現します。金融や経営の観点から考えると、社会全体の持続性を高めるような行動はただのコストに過ぎず、少なくとも価値があるとは言えませんでした。ただ、砂漠に木を植える人たちや、発展途上国に学校を作ったりする人の行動に価値を感じる人は多いと思います。

このように一言で「価値」と言っても、私たちは3つの異なる概念を区別せずに使っていることがわかります。そして、いずれも私たちの脳の報酬系を刺激する現象であり、脳からしたら等しく「報酬」ととらえることができます。

資本主義の問題点はまさに1の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあります。ただ、実際に1の価値のみを追求して2と3を無視すると崩壊します。例えば、自社の価値のみを追求し、ブラックな労働環境で社員を酷使して何の社会的意味も見出せないような企業は、優秀な人材も引き寄せられず、内部告発や社員の離反を招き、消費者からの共感も得られません。

価値主義で扱う価値とは、1も2も3もすべて価値として取り扱う仕組みです。そして1と比べて2や3は物質がなくあいまいであるがためにテクノロジーの活用が不可欠です。

裏を返せば、価値主義とは資本主義と全く違うパラダイムではなく、これまでの資本主義が認識できなかった領域もテクノロジーの力を使ってカバーする、資本主義の発展系と考えもらったほうがわかりやすいと思います。

~~~

「You Tuber」とは、チャンネル登録し動画を見てくれるファンからの「興味・関心」という価値を最大化している人のことであり、彼らが稼ぐ広告費などの「お金」とは、その「価値」の一部を変換したものに過ぎないのです。

つまり、「資本」を最大化するのではなく、「資本」の源泉である「価値」を最大化すること。
そしてその価値は上に挙げたように「有用性」だけではないということ。
そして2 内面的な価値と3 社会的な価値を現金化(資本化)する手法が例えば九ラウンドファンディングなどテクノロジーの発達によって訪れているということ。

そういう意味において、キャリアを考える上での大切な質問は、
「あなたのやりたいことは何か?」ではなく、
「あなたが感じる価値は何か?」になってくるのだろう。

超一流企業に就職できるエリートが名もなきNPOに就職するということは、自分が考える「価値」の言語化ができているのだろうと思う。まさに「合理的」判断というときの「合理的」が経済合理性のみを指し示さなくなってきているのだ。

~~~
そして、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトの転機となったコロナ休校期間中の先生方とパートナーズの「オンライン勉強会」。

「対話」の重要性と「承認」との関係を感じる機会となった。

~~~ここから

society5.0が問いかけるのは、目標達成というパラダイムそのものなのではないか?これからの社会に向けて、磨いていくべきは、目標達成の能力だけではなく、(もちろんそれが大切ではないとは言わないが)学び続けること、そしてそのために対話し続けることなのではないか?

自分と対話し、他者と対話し、社会と対話する。その社会との対話方法の1つとして仕事、キャリアがあるのではないか。「対話」によって、目の前の人は「他者」になる。いや、自分さえも他者になる。「ふりかえり」とは、自分を他者化する行為であるとも言える。

「対話」の習慣は、人を「承認」する。

~~~

いや、これ、ホントそう。承認の中でも特に「存在の承認」は、「対話」によって徐々に生成されていくのではないかと思う。

さらに、税所篤史さんと苫野一徳さんの対話から。

「探究的」に学ぶとは、「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?学校じゃなければ、できないことは何か?学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。現在の教育は150年前の仮説にすぎない。それ以前から学びはすでに存在していた。時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。それが現在の学校システム。

~~~
ホントそうだよね。新型コロナウイルスが問いかけているのはまだにそれだ。「学び」と「遊び」は、本来は分けられずつながっているのかもしれない。その「あいだ」に探究はあるのかもな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)学び足跡日記